すばらしい石材がつないだ産業~醤油・オリーブの街、小豆島の歴史と観光情報~

日本には多くの島がありますが、今回紹介したいのは「小豆島」。「二十四の瞳」のロケ地で美しい瀬戸内の風景がとても印象に残っている方も少なくないと思います。

しかし、いざ探訪するとなると、小豆島に関する観光記事は、全ジャンルの網羅というよりも、それぞれの得意分野によって情報が偏ったり、複数を調べないと知識がつながらない印象があり、さらには歴史に関する記載が少なすぎる点がとても気になっていたので、そこを現地で確認しつつ、きちんと調べて掲載しようというのが、今回の目的です。

実際に数日掛けて島の一周を目指し、なるべく半島の先まで探訪してみようという計画に加え、「寒霞渓」「星ヶ城」などの山間部もしっかり攻めつつ、流行の「インスタ映え」を狙い、欲張って「グルメ」も楽しみたい煩悩の塊を持つ人が書いたんだな~と思いながら読みすすめていただきたい!

動画でさらっと全体解説 ↓ ↓

参考図 時系列に分けてみました。

① もとは「あずきじま」だった

この頃から、寒霞渓(かんかけい)の存在が確認できます。

弘法大師が小豆島を訪れたというお話も。そこから多くの霊場がある→せっかくなので四国八十八箇所に合わせたい

→1868年、お堂を増やすなどで八十八箇所設定完了。 

島の端にいたるまで、(海沿い)小さなお堂もたくさんありました。八十八箇所巡りは大変な労力ですが、小豆島は四国よりもコンパクトに回れるので人気のようです。

島全体の図はこちら。

塗りつぶし箇所は、拙者の調査ルート。半島の先にもチャレンジ!(狭い道に注意!)


②「しょうどしま」になる

詳細時期調査中ですが、「土庄(とのしょう)」港付近の「迷路のまち」の所以はこの頃かと思います。

小豆島は、星ヶ城を中心とする小豆島町エリア 坂手港あたり~ と、皇踏山城を中心とした土庄町エリア、大きく2つに分けられます。

※城の詳細は不明な点が多くあります。

以下、星が城。

築城年代が天智年間説がありますが、詳細は看板でもよくわからないままです。石がたくさんあって、苔むした空間はジブリの世界!歩きやすい道でしたのでご安心ください!


③ 南北朝期の佐々木信胤と1ヶ月に及ぶ北朝の大軍の猛攻。

佐々木信胤が、どのような人物であったのかは不明な点も多く、北朝で活躍していたところまでは信憑性が高いと思われます。児島(岡山)から小豆島へ。海賊の名家との説も、具体的な海賊名まではっきりしていません。

北朝での活躍のあと、足利尊氏(室町幕府初代将軍)の側近高氏との対立が言われていますが、「高氏」の妻がとても美しかったようで、その女性を「奪った」のが佐々木信胤。それに対して怒った北朝方に戻れなくなってしまった佐々木の選んだ道が「南朝側」への寝返りと言われています。

佐々木信胤については「太平記」による記載のようですが、今ひとつ確証がないとのことです。

海賊の知識もあり、淡路の沼田水軍、熊野水軍を味方につけますが、大軍に攻められて破れてしまいます。


④ 実はキリスト教徒がいた?!

南蛮貿易をしていた頃、日本には多くの宣教師が訪れました。その宣教師らに影響されたのがキリシタン大名、農民などです。小豆島には小西行長がキリシタン大名としてやってきました。

小西行長

→元は岡山の梟雄 宇喜多直家の家臣でした。宇喜多氏も、毛利と対立し秀吉の味方につきました。小西行長も、秀吉の下、活躍したので小豆島の管理権を与えられました。

禁教令、取り締まり

ただし、1587年、秀吉による禁教令が出されます。

秀吉は、ポルトガルなどとの南蛮貿易も大事としていたため、結局多くの宣教師が入ってきていて、中途半端でした。小豆島は、1400名の信者がいたと言われています。

1630年にはキリスト教信者はほとんど姿をされています。島で隠れキリシタンを研究されている方曰く、一定数いたのでは?という説もあります。

たしかに表向きはキリスト教の構造物はありません。

庄屋などお金持ちの方は、お寺の治外法権を活かし、お寺内敷地に囲いをして十字架のような墓石を置いたとも聞きます。

※私有地のため、観光で見る事は難しいようです。小豆島には、家を建てるには狭小で平坦とは言いにくい海に近い場所に墓地が多く見られました。

小西行長は、秀吉の命令により、小豆島にはいった翌年、熊本へ転封となりました。

※その後、1600年関ヶ原の戦いにより西軍に。負けた小西行長は、キリスト教の教えから切腹を拒否。斬首されました。家臣らは浪人となり、徳川の世になってから、1637年には島原天草一揆(島原の乱)に加わり幕府に抵抗したという関係があります。

小西行長同様、キリシタン大名の高山右近は、元は高槻城主でしたが、禁教令により追われ、各地を転々とします。小西行長のいた小豆島にも滞在していたようです。

※土庄には高山右近の像があります。

島原の乱鎮圧あと、荒廃した農地対策で、島原半島への移住を促された小豆島の方がた。様々な理由から約1000軒が島原へ移住したそうです。

参考 島原城島原そうめん

小豆島の住民が多く移住した南島原では、機械にたよらない独特の製法の手延べそうめんが作られました!

三輪そうめん→小豆島そうめん→島原そうめん説です!

ところが、近年は他の説が有力。

中国の麺文化→島原そうめん 説

江戸幕府の禁教令から鎖国にいたる中で、長崎に唐人が多く集められた事から、長崎では麺文化が根付いており、島原そうめんの製造に使われていた道具とおなじようなものが福建省で見つかっているという話も。


⑤ 産業の発展、石から醤油へ

大坂城にまつわる石切場所が、何箇所もある小豆島。秀吉期は不明です。

はっきりわかっているのは、1620年、家康による大坂城の修築に関わる石切場所です。

※大坂城は、秀吉指示にて築く→ 大坂の陣にて埋められるなど形がわからなくなる→1620年以後、家康による修築と、二度作られています。今見える大坂城は、基本的に石垣も家康指示によるものです。

❤️マーク(2箇所)→石垣に関する資料が多い!

注意!車でないと厳しそうな場所にあります。

バスは運行間隔が空いているため、計画的に!

宿のご主人曰く、夜間はイノシシがでるらしく、夕方以降、島の東〜北〜西にいたる、海沿い道路も要注意らしいです。

だから、「ししがき」が島の外周に、動物と人間の棲み分けをするために築かれていました。石が豊富な小豆島ならでは。

イノシシ被害は昔からのようです。過去、豚熱の流行で小豆島から絶滅しかかっていた説が。今は驚異の生命力から復活したようです。

天狗岩丁場

道の駅 大坂城残石公園

写真は、小豆島から運ばれたとされる大坂城最大の石、蛸石!

貴重な資料が多く、これまで?だった方には石垣の運搬の様子が道具の展示でも判るように作られています!修羅は、古代からあります。地質学には詳しくないのですが。切り出しやすく模様が美しい広島花崗岩は知っていました。小豆島にも同様の岩があるようですね^_^

いいね!マークについて

他にも巨石を見たい方へおススメ

寒霞渓、登山道(片道1時間は必要)

ロープウェイ紅雲峡駅 駐車場から、まずは登山。道は整備され歩きやすいのですが、距離があるため夏場は水分補給にも気をつけましょう。

※とくに、午後行く方は注意。健脚でも1時間みて丁度くらい。頂上の寒霞渓駅から下るロープウェイが終わる時間を意識することが重要です。

お土産屋さんでオリーブビールを見つけました。頂上だと美味しさ2倍^ ^

コロナ対策で頂上のレストランは休業していました。麓の紅雲峡駅付近も何もありません。

池田の桟敷

池田港近くには、地元の皆さんの石垣活用の跡が見えます。コロッセオのようですねー。

秀吉から続く採石文化。

ちなみに今も石材業は重要な産業です。ある時期までは、日本中の「水準点」は小豆島産の石だったらしいです!知ってましたか?


こうした石切場には、各地から人足がやってきました。彼らが島に持ち込んだのが醤油。

小豆島は醤油に適した気候で、瀬戸内の良質な塩があり、製造後も海運はピカイチの立地でした。

最盛期は明治、400はあったと言われている醤油蔵。今は22ほどですが、小豆島のメインロードを窓開けて走ると醤油の匂いがします(^^)


⑥ 醤油からの保存食、オリーブへの挑戦

醤油作りをしている、気候がよい、海に面している

そういった要素から、1908年当時、鰯を保存食にと言った試みで注目されたオリーブオイル。

地中海では古代から作られていたオリーブですが、日本では初めて。小豆島は挑戦に成功します。

オリーブは、気候のみならず、木の管理や虫対策も重要。実から油を絞る圧搾という作業も機械がない時期はとくに大変だったようです。

オリーブ園、オリーブ公園、井上晴耕園、東洋オリーブなど有名な観光地が盛りだくさん。

オリーブ公園 オリヴィエにて遅めランチ!うっかりするとランチ難民になりますので計画的に!


映画のロケ地

二十四の瞳


ラブレター

エンジェルロード

駐車場がいっぱいになる可能性あり、人がたくさんいるため、早朝がおすすめです^ ^

大部港

「美波ー」主人公の名を呼ぶ海司の声が聞こえてきそう!


魔女の宅急便

オリーブ公園

真夏に黒いワンピのお姉さんがたくさんいました。

箒レンタルは、争奪戦のため、早朝がおススメ。


神媒体

宿でもらった島一覧は、一番活用したかも笑

地域別にわかりやすく書かれています^ ^

石の島として日本遺産に認定されていますねー!

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

おすすめ記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA