狙われる鳥取~但馬山名氏と因幡山名氏?!尼子の侵攻と毛利の攻略、そして秀吉〜

あの有名な鳥取砂丘境港の海鮮(カニ)なども楽しめる、とても素晴らしい観光地「鳥取」。

鳥取の歴史をふりかえってみますと、尼子・毛利や織田・秀吉との攻防戦があるなど戦が展開されていたのはご存じでしょうか?

なぜ、鳥取(因幡・伯耆)そして隣接する但馬地域で戦があったのか。その理由は、、、

山名氏にあります!

ちょっと複雑な関係を図示・一覧表・地図化してまとめてみました~!

山名氏については、あまりに複雑、壮大なテーマでしたので、

全部すっきりわかる解説は見当たらなかったので、今回挑戦してみました。


まずは地図。今回関係しているいくつかの「国人領主」「山名氏」「因幡毛利氏」に関係するお城の位置も記載。

紫…山名関係

青…国人領主関係

ピンク…因幡毛利氏関係

鳥取一覧を作成! ニッポン城めぐり 鳥取県40城…

※クリックすると、図を拡大してご覧いただけます。画像を保存してのご利用も可能です。

因幡・伯耆の事情…(支配・戦関連) 概要

  • 因幡・安芸毛利氏の存在。両者の相関性は薄く、安芸毛利氏VS因幡毛利氏の対立安芸毛利氏による攻略へつながっていきます。
  • 因幡山名氏、惣領である但馬山名氏との対立構造
  • 伯耆は 山名氏権威失墜 → 国人たちがそれぞれに画策。尼子氏の伯耆侵攻、毛利の介入
  • 伯耆の国人衆、尼子経久に攻められた後の対策がそれぞれ複雑である
  • 尼子が毛利に敗れた後、山中鹿之助(幸盛)の再興の動きも要注意
  • 織田・秀吉による2回の鳥取城攻めがある
  • 秀吉による但馬、因幡征伐によって、因幡伯耆地域から毛利は手を引くことになります。

今回気になる…山名氏!

山名調べ。(中四国、近畿 入力済みデータからから抽出)

山名氏に関して、鳥取だけでも 15城

但馬山名氏 因幡山名氏など、地域に分かれていることから県外のデータも集めてみますと、

鳥取以外の山名氏… 14城

山名氏が広範囲にわたり出現しているのには

理由があります!

そちらを考察!


山名氏の発展は、山名時氏(ときうじ)から始まります。

山名時氏は、幕府の信頼厚い武将でした。

山名氏の歴史を振り返る!

尊氏の時も、活躍しており、伯耆を与えられ、

南北朝の争いのきっかけとなった「後醍醐天皇」が配流された隠岐の島に近い山陰を任されます。

また、時氏は、伯耆・因幡・但馬・美作・備後・丹後・丹波・山城・和泉・紀伊の守護とされていたため、

亡くなった折には子や孫へ分けたことから「6分の1殿」とも呼ばれていました。

山名氏の範囲の広さもあり、山名氏全体の長を「惣領」としていました。

この遺産分けから、そして家督相続でもめてしまうのが山名氏の弱点だったかもしれません。


事件1:嫡子の系譜でない時煕が継いだことへの疑問から明徳の乱に

時氏の後、跡継ぎの師義が亡くなってしまったため、

師義の子でなく、時氏五男の時義が惣領になりました。

師義の子で、惣領を狙っていた満幸。

なんと、時義亡きあとは、時煕が惣領に!

通常ですと、長男に近い子が継ぐのが掟のはず…。

しかし、なかなか回ってこない惣領の座。満幸は、叔父の氏清と共に、三代将軍義満に相談。

義満の命として一度時煕を攻め、追放します。

しかし、義満の心変わりから、時煕は許されます

これにより、不満を抱いた満幸。今度は幕府を攻めました。

これが、山名家内紛から発生した明徳の乱です。

幕府軍が抑えたものの、山名氏には処分が下り、

せっかく拡大していた山名氏は因幡・伯耆のわずか二カ国に。

※文字などを拡大してご覧いただきたい方は、画像をクリックしてみてください。

※スマホでご覧いただいている方も、ズームなどしてご覧いただけます。


事例2:山名時煕の奮起、信頼回復!

彼の功績は、まず「明徳の乱」で父を亡くした山名家の遺児たちを育てたことかもしれません。

そして、幕府に反抗してしまって失った信頼を回復するために、

周防:大内氏VS足利義満 の応永の乱 の際は、

幕府軍として活躍します。

これによって、備後・安芸・石見の守護職を手に入れます。

※安芸の守護職は、特に実権のない形式的なものとなっていました…。

 参考:当サイトでも安芸国毛利の歴史の箇所で紹介しています。

しかし、当時の6代将軍足利義教の口出しが多く、アトツギでも争いが起こります。

結果として時煕の推す持豊となるわけですが、こうも後継者争いが絶えないと大変ですね。


成功例3:山名持豊(宗全)の躍進 

6代将軍足利義教は、山名だけでなく、各氏のアトツギ決めの際、口出ししていたそうです。

そのせいで、よく思われていなかったようで…(山名持豊なんて否定されてましたもんね…)

播磨国で勢力を持っていた同じく四職の赤松氏は、足利義教を殺害してしまいました。

そこで、赤松氏をライバルとしていた山名…これを利用しない手はありませんね。

幕府軍として、赤松討伐に入ることとなり、大活躍。

備前・美作・播磨の守護となることに。

※播磨は赤松氏の本拠ともいえる場所。

しかし、持豊は家督をすんなり継がせてもらえなかった恨みがあるわけで、幕府に対して反抗的な態度があったとも。

持豊は、収拾がつかないと一族が困るので、「形だけ出家」します。持豊 → 宗全 へ名を変えます。

当時は、表向きは隠居しても結局政治にも関われたので、歴史の教科書では「山名宗全」が細川勝元と対立して有名な「応仁の乱」となったと習った方もいるのではないでしょうか。(私も、試験の際は漢字の画数や書き間違い防止のためにあえて「宗全」とした記憶があります)

厳密には、「宗全」になってから「応仁の乱」が起こっているので、画数対策でもなんでもなかったのです。笑

応仁の乱の際、足利義政・義尚に味方した西軍の将 山名宗全だったのです。

しかし、山名宗全は、戦の終わりを見ることなく、亡くなります。(病死)


事件4:宗全亡き後まとまらない家中、家臣。政豊→致豊→誠豊

山名宗全の後、応仁の乱で全国的に「下剋上」

守護といえど、従うべき絶対的存在とは限らない」という意識が家臣や国人衆にも広がります。

結果として、上にあげた政豊から誠豊の3代は、但馬に本拠を置きつつも、

以下のような現象に頭を抱えていました。

  • 山名家の承継に不満を持つ是豊が「備前山名氏」を名乗って独立してしまった
  • 家臣である垣屋氏に居城を奪われた
  • 依然として終わらぬ家督争い
  • 因幡の国人衆である因幡毛利氏による反乱(2度の毛利次郎の乱)が発生
  • 因幡山名氏の家督争いに便乗する毛利・尼子氏。
  • 伯耆山名氏の家督争いに便乗する尼子氏。澄之に協力という形から徐々に尼子の支配へ。
  • 赤松氏が復活して、美作・播磨・備前を失った

結果として、因幡山名氏や備後山名氏は毛利と組んだ方が得であると動きました。

伯耆山名氏は、南条氏ら有力な国人領主が多数おり、まとめられなくて権威を失墜してしまいました


事件5:立て直したい祐豊!

周辺地域がこのような状況でしたが、引き継いだ祐豊は、まず但馬から立て直します。

但馬には、太田垣氏(生野で莫大な銀山収益を得ていた。)や垣屋氏、田結氏、八木氏を力攻めしていきます。

※生野銀山については先日投稿でも記載。

代わりに生野を治めるよう太田垣氏に依頼していた山名氏でしたが、利益が出ていることを知り、

太田垣氏に返還を迫ります。

一旦 生野銀山を奪還、生野城を築城した祐豊でしたが、

その後再び太田垣氏によって生野から追い出されてしまったという事件もありました。

内紛からこうして崩れていく構造がもったいない山名氏。

毛利・尼子に挟まれ翻弄される中…

祐豊のところには、忍び寄る、織田・秀吉の足音…

解説に対応した家系図 (惣領 時氏~祐豊)

水色の文字 …惣領 時氏→師義→時義→時煕

みどりの文字…惣領 持豊→政豊→致豊→祐豊

山名氏、怖い共通点

  • 家督争いは常に発生している
  • 但馬山名氏が主家であるが、因幡・伯耆山名氏については、それぞれの当主を但馬山名氏の当主(惣領…一族の長)が取り仕切っていることもあった。
  • アトツギにしたい長男(嫡男)が早くに亡くなることが多く、残されたものが争う構図に。

山名氏は、内紛が多く、惣領の立場になるとまとめるのが大変だったことも見えてきます。

各国に(因幡・伯耆)にもまたがっているので、そちらへ分家してしまって、そこから統制が取りずらいという課題も多く抱えていました。


祐豊以降の周辺状況を図示!(一部それ以前も記載)

織田軍・秀吉軍がやってくる~

色分けしています

桃 色…織田・秀吉軍

ピンク…安芸毛利氏系統

紫  …山名氏

みどり…伯耆国人領主

青  …尼子氏・山中鹿之助(幸盛)

特筆したいのは伯耆の国人領主たち

伯耆は、先ほども記載した通り、伯耆山名氏の勢力が弱まっていた地域でした。

それを見た尼子経久が、

1524年には「大永の五月崩れ」といわれる大規模かつ素早い伯耆攻めをしたとも。

この説によれば、上記の国人領主(図に記載)で尼子へ逆らったものはすべて国外追放した?とか。

尼子がいったんは隣国伯耆を支配したという構造が見えてきますね。

注意事項

※ただし、攻めた期間があまりに短すぎて根拠に乏しいため、創作でないかともいわれています。

※戦後処理も、国外追放でなく、尼子に従った者もいるなど、説得力がないようです。

史実に寄った説から考察すると、

  • 1524年ごろ~尼子経久の伯耆攻めがはじまった。
  • 反尼子の意志が固い因幡の国人領主は南条氏を中心に戦った
  • 南条氏は、尼子氏による伯耆攻め以降、尼子方となったが、大内方→毛利方→織田方→関ケ原で西軍。没落
  • 他については、いったん尼子氏に落城させられるが、毛利方となって旧領を回復から、南条氏の配下になるなど。
  • 毛利の配下についたものの、織田秀吉に従う形をとったものがいる。
  • 毛利の配下として、安芸毛利方の有力な武将吉川についていったものもいる。

南条氏の動きは見事なものだと思いますが、結局関ケ原で西軍として入り、改易され没落してしまいました。

図:再掲。

織田・秀吉軍の鳥取攻めと山名豊国、吉川経家について

~秀吉の侵攻前~

因幡守護の城は、天神山城でした。

山名氏家臣の武田高信が拠点とした鳥取城。

因幡山名家も家督争いがあり、武田高信は毛利の後ろ盾もえて支援していましたが、

尼子が推す山名豊国が継ぐこととなります。

山名豊国は、本拠を鳥取城に移します。

まずは但馬を攻めた織田・秀吉軍。但馬本家の山名氏から~。

秀吉が但馬の生野銀山を手に入れたことは、軍資金面でも大きかったと思われます。


そして、因幡への侵攻。

第一次鳥取城攻め

  • 鳥取城

ふもとには館、山頂の本丸といった構成、堅い守りの鳥取城。

大軍でやってきた秀吉に対し、3か月の籠城戦ののち、山名豊国は降伏・織田へ臣従します。

しかし、他家臣、山名一族は結果に納得していませんでした。

毛利も支援できるよう、吉川経家が城に入ることになります。

その当時、安芸毛利氏の配下にいた因幡毛利氏、毛利豊元は、山名豊国の密使を捕まえます。(諸説あり)

毛利の様子を織田・秀吉へ密告されては困るので、密使を切り殺したといいます。(諸説あり)

織田・秀吉の思うような因幡討伐になっていない…

そこで、おこってしまった悲劇の

第二次鳥取城攻め

第二次では、吉川経家が入りました。

秀吉は籠城戦として包囲しています。

悲しいことに、場内の兵糧は1か月で尽きてしまいました。

人々は城内の家畜を食べる。それがなくなれば生えている草を食べる。草も尽きれば城壁内の藁も口に…。

2か月目で場内の食えるものも食いつくされ、3か月目を迎えると自ずと餓死者が出るようになる。

その次の段階は、皆様が書いている通り。人肉食をやむなしとする過酷な状況になってしまいます。

秀吉のこうした籠城戦は、三木城や高松城でも展開されていました。

それでも、他のお城よりも過酷なこの状況…。

なんだか不思議と思いませんか?

その理由が2つあります。

秀吉の事前準備①…まず若狭商人を通じて米を高値で買い占め工作。

米の不足から、因幡国の米価は吊り上がってしまいました。

城主不在の鳥取城内では家臣によって兵糧米が横流しに…。(家臣が利益を得て、軍備拡張へ…💦)

結果…城内の兵糧米は一人あたりひと月分もなくなってしまいます。

城主に就任した経家…城主になった時点でこうした状況を憂い、本家や毛利家に対し兵糧の援助の手紙を送りました。秀吉の攻囲はそれよりも早かったようです。

秀吉の事前準備②…鳥取城周辺に到着次第、周辺地域の村を攻撃。住民を鳥取城に逃げ込ませる

食料の消費を更に増やさせるというえげつない一手。

同時に鳥取城の周辺に十数もの砦を築いて要衝とし、あっという間に包囲網を完成。

この急ピッチの土木作業。さぞ大変だったと思います。やり切った方々もすごい。

こうして補給を断たれた鳥取城内。たったの一月で兵糧が底を尽きてしまいました。

吉川経家の切腹でこの戦も終わりますが、逃げ込んだ住民も多数餓死しているなど、なかなかな惨状となってしまいました。


ちなみに、鳥取という名の由来は 鳥取市の地域には昔から沼や湖が多く、水鳥をつかまえて朝廷に献上する部署「鳥取部」(ととりべ)がおかれたことからといわれています。

鳥も多く生息していた地域。それでも秀吉の念入りな作戦には屈してしまいました。

今回、鳥取の話をしていたわけですが、

毛利家に欠かせない吉川元春の息子、吉川広家は、因幡の日野山名氏がいた地域に(日野山名氏は、結構前から分家してしまっています)米子城を築いています。

※もとは、山名宗之が築いた砦。出雲に近いこの地は、尼子との戦でたびたび城下を燃やされるなど…戦が多くありました。

多種にわたる素晴らしい石垣、何度も丁寧に修築されてきた歴史が見えるこのお城。吉川広家が朝鮮出兵に行ったこともあって、日本で5例しかない朝鮮式の登り石垣も!

岩は、もともとこの湊山にあったものとも。矢穴の残った残念石も。

※矢穴…石を切り出すときに刻んだ穴。あまりに大きいと運びだしにくいことから、石垣に使用したい岩にはこのような穴が残っている。

インスタ映え狙った吹き出しがたの手持ち看板もあり、写真が好きな方も楽しめる工夫満載!

米子城 神媒体と城をPR!

米子には、お城、地元愛にあふれた方がいらして、今回掲載するものは、その方によって厳選された素晴らしい媒体です。

カープ友人のR・Sさんより( ^ω^ )

この度、ようやく掲載することができました。

資料を収集下さった方がもう1人いらして、ボランティアで解説をされているとか。

わざわざ郵送してくださったんです(*^_^*)感謝!

神ポイントはこちら!

城に登ってから見える景色。あっ、あれなんだろう?ときになりつつも実際わからんまま帰ることになってしまうあの違和感が解消できるパンフ!

米子城は、素晴らしい石垣が有名。石垣の魅力を200%伝える資料!

登り石垣は、うまく撮影できなかったんですが、こうしていただいた資料で復習(о´∀`о)

どちらも、米子市、観光協会さん、米子市文化財団さんなどの冊子です。

ボランティアガイドの方は、

一般社団法人米子観光まちづくり公社さん!

米子!

拙者が訪問した折は、月山富田城→米子城→鳥取城→帰阪という、行程の半分は尼子氏の攻め入ってきたルートを再検証するような過密スケジュールでした。

ガイドの方にもお会いできず😭

米子城の素敵な石垣をライトアップして、音楽イベントもされていたそう。

またゆっくり探訪したい場所です!

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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