尼子氏の勢力下出雲国・石見国の攻城戦!

日本海に面し、「古事記」ゆかりの地が多くある「神の国」「たたら製鉄」でも知られる出雲国。そして、その隣に位置し、一時期は世界有数の銀の産出を誇った「石見銀山」を擁する石見国。そんな2国にも、大内氏や毛利氏の侵攻の跡が垣間見えてきました…!

実は拙者、石見国浜田藩領の出身。これまでとても身近にあった様々な事象。この度整理していく過程で判明したことが多くありました。

島根は、山と海岸の距離が近く、平地は限られています。(とくに石見については…。)海風が厳しいので海側の構造物は多くありません。今はJR山陰本線が走っていますが、線路から海まで遮るものが殆どありません。景色は最高です!!!

いつものルーティンで入力前に立てている予想から。

上記のような理由から、石見国、あまり城の数は多くないと予想。あっても山側、山城でしょうか。出雲は逆に、尼子関連のお城が多く有ると予想。宍道湖(しんじこ)の周辺は水運も良いでしょうし…。

では、結果を発表します。

今回の入力は

ニッポン城めぐり掲載の50城と、尼子十砦・十旗の不足分11城をあわせて合計61城

※ニッポン城めぐりの情報不足分については、各種情報を総合し、リアルに攻めた先人の意見などを優先しました)右端の尼子十砦・十旗箇所については黒字がアプリ外から追記したものです。不明が多い分、判明次第更新します。

まず、出雲国における尼子周り。

尼子氏は、大内氏のような「守護」ではなく本当の「出雲国守護」の代わりに任地で統治を任されている「守護代」でした。当時の出雲国守護は山名氏。こちらの表でも、ちらちら「山名氏」の文字が散見されるのはそのためです。

前回、安芸国の攻防戦の記事では、「全く言うことを効いてもらえなかった山名満氏」の失敗談を紹介しましたが、出雲においてはまた違うようです。

そして、出雲国の予想ですが、尼子氏家臣の城が多いですね。特に、尼子に従っていた家臣ら尼子十旗

重要拠点の十砦は 水軍拠点としても優秀な十神山城を中心として設定されました。

最初は尼子方だった城主らも、毛利の勢いに押され、戦ってからの降伏もありますが、戦わずにあっさり毛利側に入る城主もかなりいます。ここでまとめて見えてきました。「一度裏切る人は二度も可能性あり」

月山富田城の戦で尼子氏が毛利に敗れてしまった後、尼子残党らが再度毛利氏を倒すべく立ち上がる場面山中鹿之介(幸盛)のお家再興をかけた努力はさすがでした

山中鹿介

その際に「やっぱり尼子に味方しよう」とした城主は一人や二人ではありませんでした。彼らは、一度裏切った尼子をまた支えようと立ち上がるわけです。

毛利がそこでゆるすわけがなく、そういった裏切り者は徹底的に潰しています。特に、対尼子戦線では吉川元春の活躍が多く見られました。

対尼子戦線の拠点が近い、広島県北広島市(千代田町のほうが馴染み深い)にある吉川氏城館。周辺に小倉山城など堅い城多し。石見と安芸の境で、尼子との戦には必要な立地でした。

また、月山富田城攻めの際は、東西に長い石見・出雲。出雲の月山富田城周りも「毛利方」で固めつつ、毛利水軍が活躍できそうな宍道湖畔などのお城のついても改修・滞在していることもわかります。


尼子に従っていた諸氏

「総じて尼子旗下にて禄の第一は白鹿。第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、第五は牛尾、第六は高瀬、第七は神西、第八は熊野、第九は真木、第十は大西、これを十旗という。」(雲陽軍実記)

とまで言われていましたが、実際はすぐ毛利方へ寝返り、毛利が関ヶ原で敗北後に周防長門に減封となる際は、毛利に付き従って移動した武将が多かったといいます。

比較 讃岐、鳴門の対長宗我部抗戦。凄まじかった

なかなか一覧で詳しく表示されているサイトに行きつかないので、当方で一覧化しています。ぜひ参考になさってください!

用語解説

※ 尼子十砦(あまこじっそう)とは… 

戦国大名尼子氏の本拠月山冨田城の防衛線として設定された主要な十城

※ 尼子十旗(あまこじっき)とは… 

尼子氏の主要な家臣団の十の居城。


毛利が周防・長門に減封されてのちの石見国

夕日でも有名なんですよ。

江戸期においての石見国は、北前船が来る港があり、また軍事的にも重要な拠点になっていました。

日本海に面していて朝鮮にも近いことから、秘密裏に貿易もできてしまう場所。石見国の石高は高くありませんが、幕府の目が届く場所としておく必要性がありました。そこで、松坂藩主古田重治が浜田藩へ。

「鴨山」をあらため「亀山」として浜田城が築かれました。城の整備もすすみ、浅井川の治水工事も勧めてくれた古田氏。(今でも水害を度々繰り返す難敵)

古田重治の養子が二代目藩主となりましたが、二代目藩主が亡くなると後継ぎがなく改易。

その後は松平氏が入ります。

浜田城が焼失した原因は「長州征伐」でした。

城主はまだ25歳。病気で臥していた城主は、長州の軍勢に対して、放火して逃げるという方策にでてしまいました。一説には城兵による放火とも。

落城に至るまでの話については、司馬遼太郎が大村益次郎を主役とした「花神(かしん)」にも触れられています。浜田城内には司馬遼太郎の碑があります!

 

毛利らが石見に攻めてきた時期にはなかったお城ですが、古くから柿本人麿(奈良時代・歌人)の伝説が残っている場所でもあったので、なにかしらの構造物があったとも言われています。

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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