奈良といえばやはり710立派な平城京もうすこし深く勉強すれば、藤原京や飛鳥板蓋宮など、古代の歴史に出てくるイメージですよね^ ^
今回の記事では、上記のような縦横斜めに分析するツールを使って考察していきます!
寺院勢力が強いので「城」としての数は他府県よりも控えめです。
ただし、戦乱に巻き込まれるといった意味では天智天皇が築城に携わるなど、年代が古いものもあります。
① 古代の奈良
桓武天皇の御世に784長岡京、794平安京に移ってからは、奈良はさみしいイメージがあります。あながち間違ってはいません。
理由は、、、当時の都のお引越しは、建物ごとバラして運ぶのが当たり前だったからです。柱など、運べるものはもっていきます(*゚▽゚*)エコ(*゚▽゚*)
さらに、興福寺という最強の立地を我が物にしていた藤原さんは政権とともに京都へお引越ししてしまうなど、奈良の勢力図は変遷していきます。
おかげで、遷都するともぬけのから。寺院勢力が残り、彼らは勢力をじわじわ拡大。多くの荘園を手にし、「僧兵」なる護衛まで設定。
平安時代終わりごろには、
仏教界では、世紀末がやってくるヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3 と大騒ぎに。これを、末法思想といいます。
世の中がざわざわしてくると、様々な人間が台頭します。元々は貴族筋と名乗る源氏や平氏がでてくる、ただの農民じゃない、武器を持ち戦える武士として群れをなし、権力構造も変化。
② 中世の奈良
武士が政権をとります(*゚▽゚*)
しかし、、、鎌倉幕府、勢力の拡大と御家人への恩賞のバランスが崩れ、御家人の不満がピークに。
頑張っても上がらぬ給料、しまいには元寇で大散財したのにカミカゼによる勝利で恩賞ほぼ無し。
鎌倉幕府は1333にたおれます。
さんざんむざん。 そんな中で奈良が注目されます。
建武新政、天皇政治の復活を目指した
後醍醐天皇。
後醍醐天皇は、幕府を倒したのち、新政をおこないますが、武士のことを今ひとつ理解してあげられなかったのか・・・恩賞をうまく分けられずに足利尊氏と対立。
京都を追い出され奈良に逃げてきます。しかも、吉野。皮肉にも、鎌倉幕府に追われて逃げてきた「源義経」「静御前」「弁慶」が滞在していた建物に住んでいたとも・・・・。
吉野の吉水神社です!
桜の名所ですね!こちら上千本!!!
当時 狐やたぬき、魑魅魍魎がいてもおかしくない山岳宗教の聖地吉野。吉野が再注目されるのがこの頃。楠木正成の協力もありましたが、結果政権は取り戻せず、南北朝時代も戦乱が多くなります。奈良、しかも吉野にいくつかあるお城は戦に対応するためとも。
後醍醐天皇がおなくなりになってからも、日本という狭い国に2人の天皇が存在するという異常事態。長く争った南北朝時代でした。
1392年 京都(北朝)にて頭角を表した 三代将軍足利義満により、南北朝はまとめられ、
室町幕府が完全勝利した形になります。
この争いでは、南朝方についていた 大阪人が好きな武将として名がでる「楠公さん」こと、楠木正成に関わりのある戦場が各地にありますね。
※湊川神社(神戸市神戸駅から徒歩1分)も、楠公さん好きな方は行くべき場所。
※楠公さんと神戸〜芦屋の史跡編 ご要望あればまとめます!
★ 吉野から遠くない距離に 南朝方の城が ★
高取城の解説(奈良): 日本三大山城 高石垣
高取城の始まりは元弘2(1332)年、
南朝方に属した高取の豪族・越智氏が築いた、天守や櫓などの一切ない掻揚げ城
天正8(1580)年、筒井順慶 郡山城の詰城として再建。
天正13(1585)年近世城郭への整備、拡張。
この年、豊臣秀長の家臣であった本多俊政が城主となり、山城式に平城式手法を取り入れた珍しい城に。
城内には大小の天守に27の櫓、33の門を持ち、それらが積み重なる白亜の城。麓から天守台までの高低差は、
実に390mと日本三大山城の中でも最も高く
「日本一の山城」と呼ぶにふさわしい規模。
③ 近世以降の奈良~総括
表を作成して行く過程で 秀吉側の「筒井」と、織田信長を裏切った「松永久秀」の多さに気づき、抽出したのが上記です。
戦国時代の激しい攻防戦は、
羽柴秀長が天下統一事業の 対奈良戦線を依頼されていたこともありさらに複雑な戦況に。
お城のパターンとして奈良らしい特徴としては、
砦として臨時に作られたお城も多くある。
盛土がいい感じで完成しているとの理由から古墳が再利用されるパターンも多い
(古墳は農地として耕されてしまったものもありますが…天武・持統天皇の八角墳は見事に段々畑のような再利用!何も手入れされずに放置されて荒地になってしまうことを思えば、まだ良い方かもしれません)
補記:一覧表のエクセルに関して一覧表も日々分析をして随時最新情報へ更新しております!
もし、追記できそうなご情報があればお問い合わせいただけると嬉しいです!