梟雄=きょうゆう とは、松永久秀 斎藤道三 そして宇喜多直家でも有名な、「歴史のヒール(悪役)」的存在。 ※日本三大梟雄が上記三名。
岡山はそんな梟雄の一人、宇喜多直家がいた場所です!
2021年11月23日 更新
晴れの国 岡山。気候も良く
北は中国山地、東は播磨、西は備後 南は瀬戸内(村上水軍、塩飽水軍…)に囲まれた3国。 古くは赤松・山名・細川による熾烈な争いがありました。
戦国時代~安土桃山時代にかけては「宇喜多氏」の侵攻・謀略によりさらに複雑になります!笑
お城一覧
参考 アプリ「ニッポン城めぐり」+境目7城+日本の城辞典+岡山各種資料
合計344城あります!
予想:瀬戸内海に面している = 愛媛・香川同様の水軍組織、水軍対応の城郭がある?
結果:予想ははずれ。岡山においては、海沿いの港機能を併せ持つ城よりも、守りに適した山城を好む傾向にあった。戦がとにかく多い!関わる武将も多い!
その理由を以下の図で説明します!
※こちらはわかりやすくするため文献など参考にして簡略板として作成しました。諸説あり。
備前・備中・美作が複雑過ぎ・・・補足解説
もともと 赤松氏が守護で保有していたのを、浦上氏 宇喜多氏など家臣らが守っていました。
備中においては、三村氏。
美作においては、山名氏の影響も残りつつ尼子氏の進出。
そこへ、周辺から圧力も加わり、
北からは尼子氏~尼子氏が毛利氏に敗北してからも、山中鹿之介の侵攻があり、
西からは、小早川氏を養子作戦で事実上の勢力として掌握した、毛利氏が攻めてきています。
この3国に元いた浦上氏、宇喜多氏、三村氏らで団結すればこれら3氏まとめて倒せそうな最恐岡山軍団ですが、
そうも行かなかったのが歴史の難しいところです。冒頭に記載した「梟雄・宇喜多直家」が誕生してしまった理由にも関係しています。
理由① 宇喜多直家は、浦上氏を恨んでいる!(諸説あり)
幼き頃に父・興家を失った直家。出仕先として浦上氏に仕えていた期間があります。実はその間も、好色家の浦上宗景に可愛がられたという説もあります。梟雄イメージとかけ離れた「美しく才気あふれる少年・直家クン」説です。これもトラウマになりそうなハナシ。
そして、図にも記載しましたが、曽祖父・祖父・父をなくしたきっかけはすべて浦上氏に関係?
ライバル同士だった浦上氏と宇喜多氏ですから、自然と恨む気持ちも生まれそう…。
理由② 西にはライバルの毛利氏。(諸説あり)
毛利元就は、もともと小さな国人の出です。宇喜多ほどの名声もないところから始まっていますが、姻戚関係を巧みに利用して勢力範囲を広げてきました。そういった動きを周辺がしている。取り入れる方が得策ですよね。
毛利の姻戚関係には「娘」の存在が必要不可欠。ただし、姻戚相手を活かすのか殺戮するかどうかは、同じ謀略家同士であっても見解が異なるようです。
直家のように、出自、家族に関する深い悩みがこじれてしまうと、毛利の謀略をはるかに越えた「悪役」になってしまうようです。その根拠を解説します。
宇喜多直家の「身内であること」がなにより恐い…
宇喜多直家の姻戚に関する図です。宇喜多直家の姉妹や娘たちがどの婚家に嫁いだかがみてとれます。
そして、嫁いだ先で何かあったなどは点線枠に記載しました。
一番この図で恐いのが、抜粋しているこちらだけでも、姻戚6名が殺されている点。
赤文字…直家の企てにより殺された?
青文字…直家の企てにより、自ら死を選んでしまった (直家の長女)
松田家にいたっては、「鹿狩り」と称したイベントで「まちがった」という風を装い、松田一族だけ狙って弓矢を射掛けるという危険な行動に至っています。
直家は、最初毛利についていたのですが、態度を変え、織田方に変わっています。
岡山三国を語るなかで難しいのが、「味方になる相手」をずっと固定しているわけではなく、その時々でころっと変えることも生き残る手段として使われていることかもしれません。
そんな梟雄があらゆる手を尽くして 備前・備中・美作を抑えていくわけですが…
岡山一覧からあぶりだした宇喜多氏・浦上氏・松田氏
岡山 全344城。そのうち「宇喜多」「浦上」「松田」の関わりをデータで見ていこうと思います。
気づき① 意外と築城してない…? 目立つ宇喜多家臣の文字。
気づき② 宇喜多氏の侵攻に関係は14城。
では 浦上や松田の勢力が強かった?と予想し次なる抽出をしてみました。
気づき③ 山城が多い…岡山は山城多し。(平城が少ない?)
気づき④ 勢力の大きさの割に控えめ。築城数の少ない浦上氏、松田氏。
気づき⑤ 「松田氏による侵攻」の痕跡は? 城攻めは主でない?岡山事情。
※344城 (300近い追加作業はお城友さん、小野田殿の協力があり、実現できました)
梟雄の次世代は、にゃんとにゃ~く頑張った 宇喜多秀家
直家より引き継いだ 宇喜多秀家。諸説ありますが、なかなかのボンボンです。
父直家がすごすぎたので比較される秀家の立ち場を慮るとなかなか…。
先日放映された「ねこねこ日本史」でも、にゃんとにゃ~くうまくいってる秀家として描かれていました。
「にゃんとにゃ~く うまくいく」って、これってなかなかの高等テクニックです。
梟雄直家が亡くなったとき、まだ秀家は幼少でした。そのため、
宇喜多三老と呼ばれる 戸川秀安・長船貞親・岡利勝らの補佐を受け、混沌とした三国をなんとか守ることに成功します。
秀吉に気に入られ、秀の文字を頂いたり、豊臣五大老として「徳川家康」「毛利輝元」「上杉景勝」「前田利家」と並ぶことに。
宇喜多秀家、当時 石山と呼ばれている守りに適した場所を囲むように、岡山城を築城します。
守りが薄くなる箇所には、苑池を造ります。これが、有名な「後楽園」
秀吉が生きている頃は、朝鮮出兵での活躍もありましたが、
1600年「関ヶ原の戦」にて西軍副大将として出陣することに。
西軍は敗北。17000もの軍勢も福島正則らにより壊滅した秀家は、逃げおおせて島津氏に匿ってもらうも、知るところとなり、久能山への幽閉から、八丈島への流刑となってしまいます。
八丈島での生活については諸説ありますが、秀家の妻が前田利家の四女豪姫であり、援助物資など、それなりに過ごせていたという話も。
宇喜多家としては断絶しましたが、八丈島でともに生活していた息子たちは「浮田」として八丈島でその血筋を残しているようです。