安芸国を制するモノ、中国を制す?!難易度高し!安芸国事情!(元就以前)

前回は、安芸・備後を制した毛利元就の調略・婚姻政策について整理しました。まとめていく過程で、「実は元就の才能だけがなし得たものでもない」という結論に至ったので、まずはそれを一度形にしようと思います。安芸を治めることの難しさや、元就が台頭する前段階の構造から御覧ください。

例えるなら、プロ野球において、25年ぶりに優勝したときの監督もすごいけれど、実はその前の監督が育成していた若手が優勝時にスタメンとして活躍している某球団の姿。

室町時代 時代背景から

京都は室町に幕府が作られ、そこから任ぜられるのが「守護」です。各国の目付に近い立ち位置です。

感想:安芸国では、守護の入れ替わりが早いですね… 

守護一覧

  • 安芸武田氏 武田信武・氏信
  • 今川氏   今川貞世
  • 細川氏   細川頼元
  • 渋川氏   渋川満頼
  • 山名氏   山名満 今回解説図掲載
  •       煕重 教季 時煕 
  •       山名持豊 教豊 是豊 政豊

山名氏は、播磨や美作などで功績を讃えられている大名家。広島での影があまりに薄い…

原因の考察:

当時の守護は、京に屋敷を構え、任地に行かないといったケースも多かったことや、山名氏が他に抱えていた近隣の城に滞在していた可能性も感じさせてくれますね。(以下図も参考に)

※島根・鳥取・山口が未入力なので 近畿圏+広島・岡山での比較になっています。

安芸国の相関図を見ながら考察!(以下記載)

守護が苦戦するのもそのはずで、当時周防・長門(山口県)には大内氏という巨大な勢力がありました。

① 黄色の部分から 大内VS足利義満 応永の乱 勃発

周防・長門から、安芸武田氏治める安芸へちょっかいをだしていた大内氏。

領地を奪うたびに、あえて一部を「安芸の国人領主」へ与えます。

大内「味方になってくれたら、領地わけてあげるよ~」作戦です。

そして、

周防 長門 だけでなく、筑前 豊前 石見 和泉(大坂)紀伊(和歌山)守護となった大内義弘でしたが、

足利義満のご機嫌を損ねます。(勢力が巨大すぎて怖かったんでしょうね~)

そこで、義満は大内との戦にふみきり、勝利します。(いわゆる応永の乱

せっかく手に入れた国を手放したくなかったので、

大内義弘の弟 盛見は、幕府に対して抵抗し盛り返すことに成功。

大内義弘は 周防・長門・筑前・豊前の守護となります。

同時期、安芸国の守護となった山名満。

② 水色の部分 1404年 安芸の国人一揆 団結

山名満は、言うことをきかない国人たちに対し

有力な国人平賀氏を選んで力でねじ伏せる手段にでます。

しかし、平賀氏は近隣の国人たちと「安芸国人一揆」として手を組み、3年の籠城戦を耐え抜きます。

③ 緑の部分 大内氏の手出しもしんどくなってきた!改めて組み直し!

大内氏らは、応仁の乱以降、京へ行くこと、帯同での戦も増えました。そういったところの不満もあり、尼子の台頭も不安になっている彼らは、「当初結んでいた33」をあらため、9国人で「一揆」を組み直します。

この時、大内氏に不満のあった安芸武田氏は大内と一緒に畿内へ行っており、参加できず、小早川家の本家筋の沼田小早川家もあえて加入しないという選択をし、毛利の至近にいた宍戸氏は、その当時毛利との折り合いが悪かったため参加しませんでした。


強大な勢力に囲まれた中で 家を保ち守りつつ、密かに他の国人と差をつけていたのが、毛利家です。

例えば、9カ国の一揆の際は、元就の兄 興元からの提案で作られたものであること。

興元は早逝でしたが、自身の妹を尼子側の吉川元経に嫁がせているなど、「敵にしてはいけない相手」を見定められる素晴らしい武将であったと個人的には感じています。

毛利氏は近隣の城の中でも曲輪の数が270と言われるほどの良い拠点「吉田郡山城」をもっていて

維持できているところについても、他国人からみても抜きん出ていたのです。

毛利元就が台頭するに必要な「地盤固め」「周囲への抑制力」は、長年毛利家がコツコツ積み上げてきた賜物。

そこへ、「調略」を加えて他よりも一歩前へ出たのが、元就なのです。


「安芸武田氏って、あの武田氏と関係あるん?」

先程守護としても登場した安芸武田氏。有名な武田といえば、甲斐の虎「武田信玄」こと武田晴信。

関係はあるようです! もとは同じ清和源氏の系統で、甲斐源氏から派生した武田氏です。

鎌倉時代に、後鳥羽上皇による承久の乱にて幕府側として手柄をたてたことから、安芸守護に任じられ、安芸武田氏が始まります。甲斐武田氏とは、ここで枝分かれしていきます。

鎌倉幕府が倒れるきっかけとなった元寇に備え 佐東銀山城を築き、以降は「分郡守護」として銀山城を拠点に安芸にいたとされています。

上の図でも、大内氏との確執があるように、大内に属したと思えば、尼子と組んで大内に対抗している、そんな難しい立ち位置であったことがわかります。

元就が活躍して以降の話にはなりますが、毛利方の外交僧で有名な安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、安芸武田氏 武田信実のいとこ・信重の子とされています。

参考:安国寺恵瓊ゆかりの地 不動院(広島県)

安芸武田氏は、毛利元就の台頭により滅亡してしまいましたが、庶子に当たる武田小三郎は毛利に従い、周防武田氏として残っています。

また、備後国高杉城主の高杉四郎春時は、幕末に名を馳せた高杉晋作(長州藩)の祖先と言われています。

※ 高杉城城主は、安芸武田氏庶流で、祝氏と名乗っていましたが、後に高杉と名字を変えています。

毛利、殊に安芸に至っては拙者の大好物でして、まだまだ解説したい点がおおくございます。

懲りずに続編もお楽しみください!

続編予定 

今度こそ毛利の戦術解説を!

小早川氏の水軍 村上水軍!瀬戸内を制する者たち・城について

更新をお楽しみに!

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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