京都の北側、京丹後地域。京の都からも遠くなく、海産物や歴史的遺産もあり、観光資源も豊富な地域です。童話「安寿と厨子王」の舞台である由良湊や、「間人」と書いて「たいざ」と読む地域でいただける幻のグルメの話も?!
興味深いのは、節分に豆まきしない集落が丹後にある?!そして、鬼関連の話が近接した地域に何種もある事でしょうか。
今回は、探訪する中で発見した丹後の良いとこを歴史中心にお伝えしたいとおもいます!
古代の丹後 難読地名「間人(たいざ)」
多くの古墳もあるこの地。聖徳太子の母、間人皇后(はしうどこうごう)が蘇我氏と物部氏の争いを避けて身を寄せた場所でもありました。間人皇后が、この地を去るときに、自らの名「間人」をこの地に贈ったのですが、地元の方は、「はしうど」と呼び捨てにするのは恐れ多く、退座したことにちなんで「たいざ」と読ませることにしたとのことです。
幻のカニ!間人カニのおいしいお話
間人(たいざ)は良港です。11月の解禁日以降に、日帰り漁の形式で新鮮なままのカニを届けられます。
対応できる漁師もわずか数軒にとどまることから、この「間人カニ」は、幻のカニ。市場に広く出回っていません。
間人カニは残念ながら年中いただけるものではありませんが、新鮮な海産物なら道の駅でも楽しめますよ!
※さばのへしこも美味しくいただけます。
大江山の鬼伝説
鬼は外ー、福は内ー!
節分に豆をまいて鬼を払うしきたり。
穀物や果物には、魔除けの力があると古くから信じられてきました。
京の都から遠くない丹後の大江山には、赤い鬼がいて、その悪行の数々は、伝説として語り継がれてきました。
本当に、人を食べていたらとても怖い存在ですよね!源頼光らが退治し、切り落とした首を埋めたとされる伝説もあります。ですが、その正体には諸説あります。
スポット紹介:首塚大明神
京都市と亀岡市の境、老ノ坂トンネルの京都側から南へ、脇道を行った先、旧老ノ坂峠にあります。
① その正体、実は疫病?!説
平安時代 一条天皇の御世に疱瘡が大流行。
路頭には死骸が連なっていました。都人は「赤疱瘡」などと呼び、ひどく怖れました。
この説によると、酒呑童子の姿が赤鬼なのは赤疱瘡を具現化したもの。鬼たちが大酒を飲んで人肉を食い、鬼屋敷に人骨が累々と捨てざらしにされる様は、疫病で亡くなった人たちの死体が都にあふれている様子だとも、、、。
京都でも有名な八坂神社では、今でも疫病対策として茅の輪くぐりが設定されています。もし①説であってもつじつまは合いそうです。
② 酒呑童子=盗賊(山賊)説
老ノ坂を含む丹波の大江山には多くの山賊が?!
夜な夜な京の都を襲ったともいわれました。
③ 酒呑童子=異人説
日本近海を航行していた異国船が難破し、丹後半島に漂着した彼らが鬼の正体だという人もいます。
髪や肌の色の違いがあり、漂着した乗組員の異国人は恐れられたとも。
異人説については、大航海時代のはるか前、平安時代に肌の色や体格の差がある外国人がやってきたという設定です。ちょっと無理があるように感じますが、伊根の朝妻地区には紀元前の中国・秦から徐福がたどり着いたとされる伝説も残っているので一概に違うとも言い切れませんね。
①②③に共通しているのは、
「鬼」の正体は、人びとが怖れ、払うべき存在そのもの。
そんな恐れられている鬼ですが、伊根では鬼を神様としてる地域があるんです。
伊根の鬼伝説 節分に豆まきしない!
一方で、鬼が神様と言われた地域もあります。
筒川地区の話。江戸時代、薦池(こもいけ)村
鬼が雪で遭難した庄屋さんの夢枕に現れ、
「節分に豆まきしなかったら守ってやろう」と申し出ます。庄屋さん、約束を守る事にしました。
すると鬼は、「村を火から守る」と言い残し、去って行きました。
以降、この地域では鬼は神様。「節分」行事はなくなりました。
大豆は豆まきに使わず、貴重な小豆を生産?!
食べ物情報 : 薦池大納言(小豆)
この地区にはここでしか生産できない幻の小豆、薦池大納言が作られています。伊根は舟屋で有名ですが、この地区は海に面していない山がちな内陸部。
豆まきで使用する大豆ではありませんでしたが、豆を育てているというのは中々興味深いですね!
また、伊根にはあまりに有名な童話の舞台でもあるそう。
同じく伊根には、浦嶋子の伝説も。丹後の浦嶋太郎?!
伊根の舟屋から離れ、波の荒い海岸部分の本庄地区。
ここには、「浦嶋神社」があります。なぜ神社があるのでしょう。
その答えは、平安時代に伝説を聞いた淳仁天皇が命じて祀らせたといわれています。
では、その伝説とは…?
時代は、平安時代よりもっと前の478年。主人公は浦嶋子。
一人で釣りに出掛けた嶋子は、五色のカメを釣り上げます。
カメは、「亀姫」という絶世の美女へ変身。嶋子はさそわれるまま「常世」へ連れていかれます。
三年をその夢のような常世で過ごした嶋子。故郷が恋しくなり一人で帰ります。
その際に亀姫から決して開けてはいけない玉手箱を渡された嶋子。
嶋子が三年と思っていた期間、「現実世界」へ戻ってみると不思議や不思議、300年も経過していました。
知る人もいない、さみしくなった嶋子は、その箱を開けてしまいます。
若かった体は天空に飛び散ってしまいました。
大筋は同じようですが、つっこみどころ満載。
いじめられていた亀を助けてそのお礼に竜宮城へ行ったのでなく、
単に釣り上げた亀が美女になったからついていったとのことです。
宮津~舞鶴地域には、これまた有名な姉弟がいます。
もとは、江戸時代に流行した「山椒大夫」という説話より紹介。
安寿と厨子王 優しき姉と弟の復讐物語(丹後 由良湊)
時は平安時代。
もとは奥州の城主の子であった姉弟。家臣の裏切りで父を失います。
そのため、安寿(姉)と厨子王丸(弟)は、母や乳母らと共に、お家再興を願って越後の国へ向かいました。ようやく直江津についたところで、人買いに騙されてしまいます。
母と乳母は佐渡へ、安寿と厨子王丸は丹後の山椒大夫のところへ売られてしまいます。
姉弟にとってそこは過酷な労働を伴う場でしたので、安寿は厨子王とともに逃げようと提案。
安寿は、あえて別行動をとり、厨子王を逃がして自らは入水自殺をしてしまいます。
運よく天橋立の延命寺に逃げおおせた厨子王丸。
和尚の計らいで京都に入り、貴族に数われ文武両道に励みました。
治安3年(1023)に平政隆と命名された厨子王。
3000余人の兵を引き連れて奥州を目指しました。
塩谷城(いわき市)において父の仇を征伐し、長年の宿願を果たしました。
京都に戻った政隆は、朝廷より丹後の国守に任命されます。まず奴隷の解放を命じ、人身の売買を禁止し、善政に励みました。
政務の一方で、売られた母を探して佐渡に渡り、盲目の母との再会を果たしています。
このように、史実ではないけれど地域に伝わる話。
安寿と厨子王など有名なものがある丹後。
森鴎外の「山椒大夫」には、安寿と厨子王の話が出てきます。由良湊はとても美しい場所です。
物語ではありますが、由良浜には、安寿と厨子王に関する碑があるので、ぜひ思いを馳せてみませんか?