信州、長野県の面積は新潟よりも大きく、甲斐の3倍、全国でも4番目という広さ!今でも県の8割が山といわれています。江戸時代より前の石高比較(米の取れ高)が甲斐が22万石、信濃が40万石とのこと。
信濃、に隣接する上野国も内陸国ならではの課題をもちつつ工夫してきた地域である点は共通しています。
この地域の戦国武将といえば「真田氏」。この記事では、信州・上州での真田氏をメインに解説いたします。
真田氏発祥の地
長野県小県郡真田町といわれています。
もとは、源平合戦で、木曽より挙兵した木曽義仲に縁のあるといわれている海野氏の一族、海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとの説があります。(諸説あり)
地名である「真田」より苗字を得たとも。
菩提寺 長谷寺でも「六文銭」を見ることができます。
長谷寺(長野県上田市)
TKD24将?!百足衆への抜擢
海野平の戦で負けて本領から離れてしまった真田幸隆、関東管領上杉氏に頼りましたがうまくいきません。
そこで、信濃に攻め込んできた武田信玄に従うこととなります。
旧領も回復し、真田本城が本拠に
真田本城(長野県上田市)
真田本城 アクセス
車がおすすめ 本丸横に駐車場があります
真田幸隆の活躍はすごく、武田家最強家臣の称号でもあった百足衆を名乗ることが許されていました。
武田二十四将とも。
※ただし、この24将、当時は TKD24!のような某アイドルグループごとく呼ばれていたわけではないようです。江戸時代の浮世絵などに多く書かれているものらしい。
武田信玄を含めて24将とされているとするものも。なので、23将が家臣。(以下表は推定)
生没年 | 出自 | 死因 | |
秋山 信友(秋山虎繁) | 1527年-1575年 | 秋山氏 | 刑死 (岩村城の戦い) |
穴山 信君 | 1541年-1582年 | 穴山氏 | 戦死 (本能寺の変) |
甘利 虎泰 | 1498年?-1548年 | 甘利氏 | 戦死 (上田原の戦い) |
板垣 信方 | 1489年?-1548年 | 板垣氏 | 戦死 (上田原の戦い) |
一条 信龍 | 1539年?-1582年 | 武田氏 | 戦死 (甲州征伐) |
小畠 虎盛 | 1491年-1561年 | 甲州小幡氏 | 病死 |
小幡 昌盛 | 1534年-1582年 | 甲州小幡氏 | 病死 |
飯富 虎昌 | 1504年?-1565年 | 飯富氏 | 自害 (義信事件) |
小山田 信茂 | 1539年-1582年 | 小山田氏 | 刑死 (甲州征伐) |
高坂 昌信(春日虎綱) | 1527年-1578年 | 百姓・春日氏 | 病死 |
三枝 守友(三枝昌貞) | 1537年-1575年 | 木原領主 | 戦死 (長篠の戦い) |
真田 幸隆 | 1513年-1574年 | 真田氏 | 病死 |
真田 信綱 | 1537年-1575年 | 真田氏 | 戦死 (長篠の戦い) |
武田 信繁 | 1525年-1561年 | 武田氏 | 戦死 (川中島の戦い) |
武田 信廉 | 1532年?-1582年 | 武田氏 | 戦死 (甲州征伐) |
多田 満頼 | 生年不詳-1563年 | 多田氏 | 病死 |
土屋 昌次 | 1544年-1575年 | 金丸氏 | 戦死 (長篠の戦い) |
内藤 昌豊 | 1522年-1575年 | 工藤氏 | 戦死 (長篠の戦い) |
馬場 信春 | 1515年-1575年 | 教来石郷領主 | 戦死 (長篠の戦い) |
原 虎胤 | 1497年-1564年 | 原氏 (千葉氏族) | 病死 |
原 昌胤 | 1531年-1575年 | 原氏 (土岐氏族) | 戦死 (長篠の戦い) |
山県 昌景 | 1529年-1575年 | 飯富氏 | 戦死 (長篠の戦い) |
山本 勘助 | 1493年?-1561年 | 庵原氏…未詳 | 戦死 (川中島の戦い) |
横田 高松 | 1487年?-1550年 | 未詳 | 戦死 (砥石崩れ) |
参考資料:『甲陽軍鑑』等
村上義清との対立 場所は砥石城
武田方ならず、上杉に援護をしてもらっていた村上義清。
村上氏の城に、砥石城という堅城があります。急な山・黒砂でできているので足元も滑りやすく危険な城です。
1550年 砥石城1000名もいなかった村上軍に対し、攻める武田信玄軍は7000人余り。
しかし、あまりの堅さになかなか落とせず、時間がかかっているうちに、北信へ攻めていた村上氏の本隊3000が戻ってきて形勢は逆転。信玄は砥石城を落とすことができませんでした。重要な家臣横田高松も失っています。
これが有名な「砥石崩れ」です。
一度は砥石を落とせなかった武田軍ですが、砥石城の目と鼻の先にある「真田本城」城主真田幸隆は、その翌年再度砥石城を乗っ取ることに成功します。
その方法は、真田氏の親族や幼馴染をつかった知略といわれています。
真田氏の由来である海野氏。村上氏によって海野氏が果たせなかった無念を10年かけて取り返したとも。
砥石城(長野県上田市)
砥石城 アクセス
車で行くことをお勧めします。駐車場あり!
神媒体
(今回は上田城前のお土産屋さんで衝動買いした本も)
砥石城参考資料
伊勢山自治会・砥石伊の会 発行 「いせやま」で未来につなげたいこと
全国山城サミット 上田・坂城大会実行委員会 発行 山城ガイドブック~村上氏連珠砦~
転換点!TKD24解散の危機!武田信玄の死~武田家滅亡へのシナリオ
織田包囲網の筆頭となっていた武田信玄。ところが、健康面での心配事があった様子。
遺言書なるものを数多く作成したり、亡くなったことを3年周囲に漏らさないように伝えており、
亡くなったときに備えて書状の花押などでバレないよう、800枚の紙を用意していたなどの話も。
「事業承継・相続に不安がありすぎてしっかり備えていた」ようです。
しかし、近隣の戦国大名を震え上がらせた甲斐の虎武田信玄も、病気で亡くなってしまいます。
万全の備えもむなしく、武田勝頼は「決して好戦的であってはならぬ」という大事な約束を破ってしまったことで、武田家は滅亡への一途をたどります。
信玄の願いむなしく、1575年の長篠の戦い。騎馬隊と鉄砲隊との戦で負けた武田軍。
真田においては、家督を継いだ信綱・昌輝が亡くなります。(昌幸にとってはお兄ちゃん)
本来回ってこないと予想された家督。武田勝頼の意向で、信綱の長男でなく、昌幸が真田の家督を継ぐことに。
武田氏の奮闘むなしく、1582年に武田勝頼の自刃となり、真田昌幸は、高遠の織田信忠のもとへ向かい、織田に従うことを伝えます。
高遠城(長野県伊那市)日本100名城
武田勝頼の異母弟仁科盛信の奮闘むなしく織田の大軍に敗れてしまいました。
今は桜の名所となっています。
高遠城 アクセス
車をお勧めします。駐車場あり。
100名城スタンプはふもとの歴史資料館へ!
真田昌幸と沼田城・名胡桃城の攻防
信濃・上野の様子を地図に落とし込んでいます。
真田のルーツである真田庄(真田本城あたり)から沼田へいくには?
真田本城から東へ、嬬恋村を通って街道沿いにすすむと、岩櫃城を経由して進めます。
上田~嬬恋村ルートは、かなりの高原地帯ですが、昔から使われていた道で、
かつ他氏との関係や道の広さなどを鑑みると、無理なく移動できる最短ルートとも考えられます。
沼田城は重要拠点であり、ここについては北へ進みたい「北条氏」とぶつかることの多いお城でした。
また、名胡桃城も沼田城と近く、上杉謙信の死後、1579年に上杉と同盟を結んだ武田勝頼の命で真田昌幸が築城したお城です。
沼田地域は、家康・北条・秀吉らにより争われた激戦区。
名胡桃城は、連郭式の山城で、武田氏の特徴である丸馬出も2か所確認できるようです。
沼田城については昌幸も手放したくなかったようです。それがわかるエピソード。
・真田昌幸が「家康の命令」で北条に譲ることは拒否したが、家康の報復攻撃に備えて
家康から離反 ⇒ 上杉景勝につき、秀吉を頼った
そうしたところ、家康による第一次上田城の戦いとなりますが、
さすがの真田昌幸。家康を撃退します。
・別の時、「秀吉の命令」で北条に譲ることは致し方ないとしたが、
北条氏の配下、沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を攻略してしまった。
これを機に「小田原攻め」へ。
小田原攻めで、北条氏を倒すことに功のあった真田氏、沼田城を取り戻した。
上田城(長野県上田市)
上田城 アクセス
公共交通◎
電車がお好きな方へ 上田鉄道もおすすめ
車で行かれる方は、周辺駐車場を調べての探訪をおすすめします
紙媒体紹介 名胡桃城 沼田城
名胡桃城・沼田城のパンフレットです(嬬恋村の観光センターで発見)
難局!秀吉の死と家康の台頭
秀吉が1598年に亡くなると、周囲は秀頼を盛り立てようと動き始めています。
一方では、徳川家康も天下を狙って虎視眈々と準備をしている様子。
そんな中で石田三成VS徳川家康で起こったのが
1600年 関ケ原の戦い
関ケ原に集い、戦をしたこの一日だけが「関ヶ原」ではありません。…その前後が重要だったりします。
徳川本隊を率いていたとされる徳川秀忠隊。
彼らは、関ケ原で戦をしておりません。
理由は、「上田城にて西軍の真田昌幸らにひきとめられていたから。」その戦が、
第二次上田合戦
結果として、真田は徳川秀忠を撃退した。関ケ原での西軍は惨敗。
これによって、関ケ原に参戦していた西軍の将たちは斬首・流刑など…
しかし、上田城で大軍を迎え撃ち10日も耐えた上田城の真田氏は…「負けていない」ので、高野山に蟄居となりました。
真田氏の賢明な策で事前に、信幸と昌幸・信繁の二手に分かれて東軍西軍に属していたため、兄信幸はこれまで通り大名でい続けることができました。93歳まで生きていた(松代城)とのこと。
昌幸・信繁については、高野山を脱出して九度山へ行き、そこで再起をはかって大坂の陣へ…といった道を選びます。
徳川秀忠が拠点にした小諸城
穴城と呼ばれ、城下町よりも低い場所に築かれたその珍しい構造は、仙石秀久による縄張りから!
天守台の野面積みがポイント
元々火山灰が積もっていた場所。長い期間を経て特異な形になったとか!川の増水で流れてしまった石垣などを補修した形跡もあります。
小諸城 アクセス
JR小諸駅すぐ! 駐車場もあります(有料)
松代城(海津城)
第四次川中島の戦いの場所からも近く、上杉謙信に関係する場所でもあります。
馬出に特徴あり、土塁も石垣もなかなかのハイスペックさが推しのポイント。上田から転封され真田信之が過ごした場所でもあります!
松代城 アクセス
車をおすすめします。駐車場があります!
通称「松代駅」は鉄道遺構のバス停名なので、バスがないと厳しい場所にあります。