お城は守るために築かれています。だからこそ、戦については一緒に学べます!
天下分け目といわれた、関ケ原の合戦(岐阜)
東と西に分かれての戦としては大坂の陣(大阪)
合戦には多くのエピソードがあります。
2021.05.18 古代の大合戦!壬申の乱(関ヶ原、岐阜)
関ヶ原にて、日本を二分にする勢力争いがあったのは一回だけではありませんでした!
飛鳥時代 天智天皇逝去後の、672年 壬申の乱です。
先日、岐阜市歴史博物館 にて (岐阜城の城域にあり)
壬申の乱展 (2021年5月)
マニア受けします!笑
関連寺院の瓦などがたくさん展示され、
戦に関わる史料 日本書紀の該当箇所をみせてくれました!
(欲を言えば、原文だけでなく、一般向けに現代語訳をつけてもよかったかなー。)
古代史専攻していて記紀に慣れ親しんでいたかにかまには嬉しい仕掛けでした!
壬申の乱展 | 展示物◯ わかりやすさ△ ヲタク向け◎ 特筆 こどもにもみやすい解説版◎ |
戦のきっかけ
律令制度を取り入れ、「庚午年籍」最古の戸籍制度を導入した天智天皇がなくなり、
その子大友皇子が引き継いで 即位することが決まり、
大津京の造営、白村江の戦による疲弊など、民衆に多くの負担を強いることとなった。
この有様を見た 天智天皇の弟 大海人皇子は、すでに出家して吉野にいたが、倒すべく立ち上がった。
壬申の乱の全容~ 実は範囲の広い戦である~
大友皇子 大海人皇子両軍とも、従ってくれる豪族・郡司に声掛けをはじめた。
大海人皇子
名張…名張の郡司は断り出兵拒否
伊賀・伊勢・美濃と、東国の豪族らの協力を得る。
大友皇子
西国へ声をかけるも失敗。機内近隣の豪族の協力をえる。
美濃・関ヶ原における関連史跡の紹介
黒血川 :山中藤下の地で両軍 初の戦いが起きたといわれています。
激戦により両軍の兵士の血が川底の岩石を黒く染めたことからこの名がついた?
井上神社 :大友皇子と大海人皇子が、藤古川を挟んで戦ったとも。この神社は天武天皇(大海人皇子)を祀っており、
川の東側の松尾地区の村人が、大海人皇子を称え神社を建立したといえます。
桃配山 :大海人皇子が兵士に山桃を配って激励したことが名前の由来といわれ、
関ケ原合戦では徳川家康が勝ち戦の験を担ぎ、最初の陣を構えた場所。
野上行宮跡:大海人皇子は野上に行宮を興して、そこを本営としました。大海人皇子による大友皇子の首実検も、
この地で行ったといわれています。
結果
関ケ原での戦で勝利した大海人皇子、同年の7月22日には大津 瀬田橋の戦いで最終決戦。
7月22日には大友皇子が自害して終わる。
都も、大津京から 飛鳥京へ戻された。
当時重要だった3つの関 (愛発の関・不破の関・鈴鹿の関)は大海人皇子の配下となり、
大海人皇子の完全勝利。
※9世紀には、三関の1つ愛発の関は、逢坂の関と代わることとなる
人間関係が入り組んだドラマが好きな人向けの視点
この戦の背景には… 先程の画像には非掲載のドロドロな一面も隠れています。
天智天皇と大海人皇子は、異母兄弟同士。額田王(ぬかたのおおきみ)という一人の女性を好きになってしまいました。
最初は大海人皇子と恋人関係にあった額田王。2人の間には十市皇女(とおちのひめみこ)という女児が生まれます。
その後、額田王は、天智天皇と婚姻関係に。
十市皇女は、天智天皇と別の女性との間に生まれた男児・大友皇子と夫婦になります。
つまり、
壬申の乱において、十市皇女の立場から見ると
「自分の父親 VS 自分の夫」
「自分の父親 VS 自分の母親の再婚相手の子供」
あまりに複雑な気持ちで、戦を見ることとなってしまうのです。
※青字は大友皇子のこと…
そしてもう一人。
戦において影で支えていた大海人皇子の正妻(つまりは、額田王に対して敵意のありそうな一人)うののさららの皇女。
後の持統天皇。(ここでは持統天皇とお呼びします。)
彼女は、大海人皇子の妻でもありますが、天智天皇の娘であり、大友皇子とは兄妹関係になります。
彼女からすると
「自分のおじさん VS 自分の兄妹」
「自分の夫 VS 自分の兄妹」となるわけで…
※ピンク文字が大海人皇子のこと…
現在の相続争いのようなものかもしれませんが、
当時は3親等内の結婚が認められないといったルールは皆無なのでこのように複雑な問題がおこってしまいます…。
関係者一同 みんな複雑な思いを抱えている
そんな戦が「壬申の乱」
関連する豪族・地域の多さもあり、
複雑だけれどわかると面白い、そんな戦でした。