民俗学といえばの柳田國男、ルーツにあたる家が福崎に残されていますね!

福崎から感じる「民俗学・柳田國男」のルーツ

福崎は姫路から播但線でやく30分北上した地域!その道は、かつてさかえた生野銀山の運搬ルートで今は「銀の馬車道」としてもPRされているルートがありますね。

福崎~北上し生野銀山、そしてさらに但馬へはいるとそこは山名氏にも関係の深い、出石へ!

そんな出石をもっとくわしく解説していきます。

出石と古代

出石町は、「古事記」「日本書紀」にも掲載あり!

垂仁3年に、但馬開発の祖神ともいわれる新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が、渡来してこの地を拓いたという伝承も。

名の由来も、天日槍の宝物である『出石小刀』といわれています。

但馬の国衙(こくが)が置かれていたとも伝えられ、袴狭地区にある「砂入遺跡」からは「人形(ひとがた)」 「斎串(ゆぐし)」といった祓いの道具が大量に出土しています。

武士と出石

室町時代「太平記」でも有名、山名時氏(ときうじ)が但馬地方を制圧その子時義(ときよし)は、此隅山(このすみやま)に本拠を構えました。

山名一族は 、日本全国66カ国中11カ国を治め「六分の一殿」と呼ばれました。

一族の内紛(明徳の乱)を起こし、その後わずか3カ国の守護となってしまいました。

時義の孫宗全(そうぜん)はその勢力を盛り返し、応仁の乱では西軍の大将となります。

京都にある船岡山は、応仁元年(1467年)、西軍を率いる備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山城を建築して立て籠もりました。西軍の陣地となった船岡山を含む一帯はそれ以来「西陣」の名で呼ばれるようになっています。

西陣と船岡山、山名氏が関係?!

戦国時代~山名氏はその勢力を失い、山名祐豊(すけとよ)の時に織田軍の羽柴秀吉に攻められ此隅山城は落城しました。

祐豊は城を有子山に移し守りを固めましたが、天正8年(1580)に秀吉の弟秀長(ひでなが)により有子山城は落城、山名氏も滅ぼされました。秀長は城を木下昌利に守らせます。

その後城主…青木甚兵衛、前野長康、播州竜野から小出吉政(よしまさ)、吉英(よしふさ)と続きます。

小出吉英のとき、山麓に平山城を築き城下町づくりを行いました。(現在の麓、出石城へ)

小出氏は九代、約100年間続きましたが後縦ぎがなく断絶。

元禄10年(1697)に武蔵国岩槻より松平忠徳が移封。

宝永3年(1706)に松平氏は、信州上田の仙石政明と国替えとなりました。仙石氏は七代続く。

天保6年(1835)の仙石騒動により、三万石に減封され、明治に至る。

仙石騒動とは?江戸の三大お家騒動勃発

出石藩第6代藩主仙石政美の代、藩の財政は逼迫。藩政改革の機運が盛り上がった。行政の最高責任者の筆頭家老仙石左京は、重商主義的産業振興策と人件費削減策。財政責任者である勝手方頭取家老仙石造酒は質素倹約令の励行という保守的な政策と大量に発行された藩札を回収することを主張。両派は対立し、藩主の政美は左京の政策を支持し、強い権限を与え藩政改革にあたらせた。藩主の支持を背景に左京は、藩士の俸禄の一部を強制的に借り上げ、藩営の物産会所を設置し、御用商人以外を締め出す代わりに御用商人から徴収している運上金の金額を大幅に値上げする、などの改革を推進した。しかし成果がなかなか上がらず、俸禄を減らされた藩士や領外の商人、多額の運上金を課せられた御用商人らからも反発が出た。

政美は左京の政策を一時停止させ、失脚していた造酒を復権させ藩政を執らせた。直後の藩主政美の急死、対立と混乱は深刻化。

当時の将軍徳川家斉、水野忠邦、藩主久道の実家姫路藩や、関係した神谷転(うたた)が虚無僧の格好をして逃げていたのを捕縛したことから裁定に寺社奉行が関わる等、出石藩の財政悪化から改善するまでの取組で始まった争いは広がっていく。

最終的に、仙石左京は八丈島へ流刑となるが途中の三宅島で病死。

出石そば、あれこれ

出石そばは、小皿にわけて提供するスタイルのおそばですが、始まりはそば好き信州の仙石氏が職人も連れて出石に来た事からはじまります。

全国に数多あるお蕎麦文化ですが、出石がここまで有名なお蕎麦になった所以は、本場信州の職人の存在が大きいかも!

もちこまれた当時は小分けの文化がなく、今の出石焼きの皿に小分けしてる形は幕末からといわれています。

お蕎麦屋さん探しに役立つ?!Googleマップにお蕎麦屋さん入れましたー!

マップで出石の名所をみる!

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