先祖代々から引き継いできた仕事、慣れたお仕事に万が一の事態が発生してしまった! あなたがその従事者、経営者ならどうしますか? 今回は、瀬戸内の 塩飽(しわく)水軍の話をしたいと思います。
先日は、小早川の関係の投稿にて、水軍に関して権力者目線でアップしました。
今回は、塩飽水軍視点で整理していこうと思います。
再掲! 【 水軍とは? 】
さて、平安時代の記載できになる記述…藤原純友。「海賊」として有名になりましたが、朝廷により鎮圧されました。その頃、「海賊を鎮圧する勢力」として瀬戸内に拠点を置くものが現れています。それが、塩飽水軍の礎を築いたといわれている、「香西氏」由来の「宮本氏」です。
一度、大内氏に味方したことのある「能島村上氏」の影響を受け、村上氏とともに毛利方としての活躍もありますが、この水軍は、村上水軍と違う点があります。
何かというと、「操船技術」「航行技術」を磨き「水夫」としての役割である事。
そのため、権力者は、配下として「軍兵」を従えるというよりも、交易や海運に欠かせない「水夫」を囲い込むという考えに至ったようです。
織田の際は塩飽水軍を特別に扱い、秀吉に至っては石高をあたえ、家康に至っては所領安堵しています。
マインドマップに、整理してみました(*´ω`*)
自治権を認められ、近隣の藩にも属さず、とくに高松藩に至っては、漁業権でもめた際も、共有するようにといったお達しがでるなど、その特別な立ち位置は他の水軍には内特徴といえます。
訪れる試練
そんな塩飽水軍ですが、江戸時代半ば以降は試練が訪れます。
上記の図の
緑色の文字!
くわしく掘り下げていきます…
塩飽水軍の転換期について
江戸時代、年貢米を江戸へ運ぶ際には、陸路でなく、海運を使用していました。
有名なのは北前船。海産物を長期間保存するための「塩」は、欠かせないものでもありました。
北前船とは、
松前(蝦夷)~日本海側~敦賀~門司~大坂
運んでいたもの
- 蝦夷向け … 米や砂糖、塩、日常生活品など
- 畿内(大坂向け)… 海産物が主。身欠きにしん、数の子、昆布、干しなまこ など
物流の重要ポスト「廻船」は、各寄港地などで売買をすることで大きな利益を生むので、他社の参入が避けられなくなってしまいました。塩飽で人名として廻船を請け負っていた人々は、「大坂の有力な廻船問屋」によって仕事を失うことになります。
元は戦場よりも、安全な航行や長期間の船のメンテナンスにも長けている方々なので、ある人々は「宮大工」、「他国での水夫」「出稼ぎ大工」、「生業の漁業」を選択することになります。
廻船にこだわらず、塩飽大工へ転身した人々は、高度な技術を活かし、近い岡山などの寺社仏閣の建築に関わります。その数は、塩飽大工研究会 三宅さんによる成果報告書によると、433(うち173が現存)、棟梁級の大工は613名に及ぶとも言われています。
※参考数値:秀吉期に、「御用船方」とされた人数がおよそ650名と言われています。
2021年の現代でも、長年カメラのフィルムで安泰とされていた「富士フィルム」さんが、フィルム事業では立ち行かないことを予見して、フィルムの主原料に含まれる長年培ったコラーゲン研究や技術を生かして化粧品事業を展開されていることも有名ですね。
塩飽水軍の長年培った技術の精度をより高め、時代にあった使い方へ応用するというやり方は、現代に通ずるところが大いにありますね。
そんな彼らでしたが、追い打ちを掛けるように、明治時代には特権であった「人名」がなくなります。宮大工としての仕事も、「廃仏毀釈」の流れから難しい場面があったと思います。(破壊が激しかった地域の例ですと、岐阜は多くのお寺が破壊されたとも)
そこで、かれらが見出したといわれるのが、神戸での洋風家具作りとも言われています。(諸説あり)近代化が進む日本。特に、外国人が多く住む神戸では、重宝がられたことでしょう。
既得権益はまだあった
塩飽という場所は、重要な拠点でもあるので、表向きの特権はなくなっていても、地主や漁業権にあたる「特権みたいなもの」は継続していたと言われています。
既存の特権の恩恵に預かっていた方は、もう一度試練が訪れます。太平洋戦争の後、今までの地主ー小作人の制度がなくなる農地改革や、漁業法の改正という試練もありました。
塩飽諸島は、今の瀬戸内海、瀬戸大橋のあるところで、岡山からも遠く有りません。観光地化が進み、一時期はテーマパークがあったようですが、運営に課題があり、今また試練を迎えていらっしゃると思います。
古代から、自らの技術で権力者とうまくやっていき、生き残ってきた珍しい水軍勢力であったことはここまでの記載でご理解いただけたでしょうか。
引き続き、時代を越えた先人のサクセスストーリーや失敗談を掲載していきます!