宇治探求!今はなき巨大な池「巨椋池」や、瀬田川水系の宇治川~湿地だらけの地域を苑地としても活用した藤原道長を見てほしい!
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お茶で有名だけど、宇治って「茶葉の名前」じゃない!実は…その由来からお伝えしていく。
宇治は、いいみちという意味?
宇治という地名由来は、地形と大きく関係するという説が有力。
まず、キーワードは宇治の西側、巨椋池と瀬田川水系という点。
いまや池の痕跡を探すことのほうが難しいこの巨大な池は、水害も多く、地域住民の悩み。
従来の説:仁徳天皇の弟、稚郎子(わきいらつこ)の宮があったから
稚郎子(わきいらつこ)は、「日本書紀」のなかで、仁徳天皇とのあいだで皇位の譲り合いが長くなり、それが天下の煩いとなることを心配し、身を引くために自殺した人物。しかし、天保年間の歌の解説本で書かれている説という点からも怪しい…
有力な説:「うち」から「うじ」へ。
地形から鑑みた説。田畑があった地域が「うち」→「宇治」
有力な説:都合の良いみち→「う」「じ」が合体したもの
この説が有力な理由は、稚郎子が居た時期よりも前から「うじ」だったからともいわれている。
「宇治橋」の苦悩?!
お茶用の水を汲み上げる宇治橋三の間が観光地として有名だが、古代にはない。橋の形状も、飛鳥時代の史料は橋名のみで、架かってた場所も今と違っていた。橋は度々の水害被害もあった。
時は飛鳥時代、大化の改新翌年に遡る。「日本書紀」にも、「大化2年」に元興寺僧・道登が架けたという説が有力。宇治橋の記録が残されている文献は、日本各地の不思議な出来事をおさめた「日本霊異記」「日本書紀」などから。
関わったのは3名の僧「道登」「道照」、13世紀には叡尊の修造と記載されている。館野氏、岩佐氏、井上光貞氏、和田氏の研究から時系列でまとめてみた。
①大化元年 元興寺僧、道登が架橋。道照は当時18歳。
※道照説があるが、唐に入る前なので当時関わっていたかは微妙なところ…。
②壬申の乱以前は、橋がかかっていたらしい
③壬申の乱で壊された可能性。ここで道照の修繕可能性も出てくる。
600年代にすでに宇治の架橋が史料に記載されている。僧道照は、あちこちで井戸を掘る、架橋する、道の整備などをしているインフラ系に強いお坊さんという事もわかる。
余談にはなるが、インフラ系坊さんは何人もいる。その後、奈良時代には行基の活躍があった。奈良元興寺に関わった僧達は、識字率が低かった飛鳥奈良時代に知識のあるものとして各方面で重用されていた。行基は3代目になる帰化人。この渡来人とインフラ系坊さんの相関性、あるある。
宇治茶は鎌倉時代から
もともとは日本は租税中心。租税というのは基本が「稲」なので、「宇治茶」については、奈良時代には記載がない。イギリスで紅茶が庶民まで流行ったのが産業革命以降というのは有名な話。日本でお茶が幅広い身分・階層に広まったのは奈良・平安ではなかった。ではいつから?!
鎌倉時代初期に茶の栽培方法を知る
建久2年(1191年)臨済宗の開祖・栄西が宋から帰国した際、栽培方法や喫茶法を持ち帰る。
長崎県平戸の富春園に日本最初の茶園、福岡県と佐賀県との境にある脊振山に茶園を開いた。その後、高山寺の明恵上人に茶の種を贈り、明恵上人が栂ノ尾にお茶の種を蒔いた。
承元5年(1211年)の栄西71歳 日本最初の茶書『喫茶養生記』。これにより全国に茶の効能がひろがる。
室町時代には茶栽培が盛んに
1379年 足利義満が宇治茶の栽培をするために「宇治七茗園」と呼ばれる七つの指定茶園を作り、宇治では一層茶栽培が盛んになる。
森、祝、宇文字、川下、奥の山、朝日につづく琵琶とこそ知れ
和歌にも詠まれた宇治の7園。現在も残るのは奥の山1箇所のみ。
宇治茶の定義
①元々は…
宇治郷に住んでいる宇治茶師たちがもっている茶園で作ったお茶のことしかし、宇治郷に住みながら、宇治郷外の茶園でお茶を作っている人もいた。
②宇治郷の茶師のもとへ集められたお茶=宇治茶
そして・・・宇治茶の偽物が出回るようになる
③1584年「羽柴秀吉禁制」
他郷の人は、宇治茶といったり、茶袋を似せたり、よそで商売するな!というもの…
今、宇治茶の定義はこうなった
京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県産茶を京都府内業者が京都府内において宇治地域に由来する製法により仕上加工した緑茶
宇治茶と静岡茶には違いがあるのか?
静岡茶の多くはお茶を摘取後お茶の発酵を止めるために茶葉を蒸す。その蒸し時間は長く、宇治茶の多くは蒸し時間が短い。
この蒸し時間の長短が味、香りと水の色の大きな差異に。
藤原氏と宇治の関係とは
平安時代の宇治の姿はどんなものか、ちょうど大河ドラマ「光る君へ」のお陰で、宇治駅すぐの場所に展示があった。わかりやすい内容なので写真を掲載。
宇治のメインストリートを記載した上の図。平等院の西側を逆L字に描いた赤部分が平安時代からある道
緑部分は、中世・近世以降に発展してきた道
そうなると、気になる「宇治橋」の場所…
宇治橋は、平等院に近い部分に架けられたと言われている。古代の宇治は、茶園でなく湿地帯の印象も強い。秀吉が「巨椋池」対策で灌漑などかなり手を入れている部分は、京阪宇治駅のすぐ西側の「太閤堤」でも想像できそう。
平等院鳳凰堂は、息子頼通によるもの
もともと低湿地なので舟遊びなどにも使える苑地は作りやすかった。多くの収蔵品が丁寧に保存されてみやすくなっているのでミュージアムはぜひ行ってほしい。中央の阿弥陀如来は平安期の特徴が出ている。キーワードは「定朝」。これまでの仏像彫のやり方を覆す方法で造立。
藤原氏の古墳、30基以上、宇治にある?!
宇治・木幡には藤原道長が浄妙寺という寺院を建立。もともと宇治は藤原氏の墓を作る地域だったそう。ちなみに浄妙寺、中には入れないらしい。
古墳の造立は、古墳時代が終わり飛鳥以降仏教寺院建造に切り替わり下火にはなっているが、規模が小さいながら継続されている。木幡地域には藤原⚪︎号墳が30以上ある。藤原にも関連する古墳の中には、后となった18人と2人の親王が埋葬されている。最近話題の中宮彰子の墳墓もある。
墳活のススメ
自転車は必須。レンタサイクルは、六地蔵か黄檗、宇治駅にしかない。
例「六地蔵」でレンタル ハローサイクル
古墳を見ながら木幡方面へ。「黄檗」の返却場に。
なぜ「宇治十帖」なのか
宇治の地名の由来説のあった稚郎子は、応神天皇と和邇氏の間の子。和邇氏は宇治に関わりの深い小野篁の祖。小野篁と紫式部はつながっているから?!
- 紫式部と小野篁の墓が京都の堀川通に並んで築かれている
- 紫式部のルーツ・宮道氏の館が山科の小野郷にある。
- 宇治の宇治橋に祀られているのは橋姫。この神の正体は、瀬織津姫とも
※瀬織津姫は、「古事記」「日本書紀」には何故か記載がない。西宮神社では戦前「天照」でなく「瀬織津」を祀っていた話もある。伊勢にも「宇治橋」はあり、これも関連が深そう。小野氏がこの神をまつっていたりと、小野氏と瀬織津姫がリンクする点でも宇治十帖に関連してそうな感はある。
写真は源氏物語ミュージアム
源氏物語とは?
宇治十帖の古蹟として駅周辺にも多くの石碑があるくらい、江戸時代も人気のお話だった様子。改めて物語について整理してみる。
3部構成になっている
第一部 光る君の誕生~昇進していく様 紫式部が夫宣孝の死をきっかけに書き始めた
33帖
桐壺 帚木 空蝉 夕顔 若紫 末摘花 紅葉賀 花宴 葵 賢木 花散里 須磨 明石
澪標 蓬生 関谷 絵合 松風 薄雲 朝顔 少女 玉鬘 初音 胡蝶 蛍 常夏 篝火 野分
行幸 藤袴 真木柱 梅枝 藤裏葉
第二部 知られてから書くようになる
8帖
若菜上 若菜下 柏木 横笛 鈴虫 夕霧 御法 幻 (雲隠 不明)
第三部 宇治十帖
10帖
橋姫 椎本 総角 早蕨 宿木 東屋 浮舟 蜻蛉 手習 夢浮橋
古蹟巡り(石碑めぐりは、蜻蛉、手習のみ三室戸駅側の離れた場所に)
後の世の人々が勝手に妄想しゆかりのありそうな場所に石碑をおいている場所。
余談と美味しい話を最後に。
宇治茶や抹茶スイーツを求めて宇治に来るなら、メインの平等院参詣道は混みすぎている。個人的に穴場だったのが福寿園内のカフェと、源氏物語ミュージアム内のカフェ。源氏物語にちなんだストーリーを意識した和菓子に抹茶がたのしめる!