関ヶ原合戦にまきこまれた!悲運な大垣城城主伊藤氏の嘆き

配置転換、成果物の明け渡し、、、現代社会でも嘆く社畜さんはいらっしゃいます。2021年4月の日経新聞でも、希望した配置や業務にならない事による訴訟が取り上げられていましたね。現代は、法の裁きにより一定のルールに基づいた方法がとれますが、戦国の世の中はどうだったのか、大垣城の特徴も合わせて書いてみます!

狭間の位置がちょっと低いような。そんな違和感。身長150くらいの子どもがしゃがんで丁度。

大垣城天守閣(有料)入り口に配置されている紙媒体。

お城パンフ紙媒体データ:★3つ 読みやすい◯ 歴史背景◯

内容も見やすく折りの入っていないA4サイズは情報も盛り込みやすく、保管やデータ保存に適しています!

まずは縄張りを確認!何重もの水堀に囲まれた形は交通の要所である大垣の守りにも適しています!輪中で有名な地域ですから、豊富な水をたたえる水堀作戦、アリです!(佐々成政、秀吉ゆかりの墨俣一夜城が近くにあります)

四層の天守閣は、伊藤佑盛により築かれましたが、度々の戦により再建されて今に至ります。

代々の城主(概要)

竹腰氏

氏家氏

伊藤氏→伊藤祐盛、1599から伊藤盛正 西軍

岡部氏(関ヶ原合戦時の留守居)西軍

久松松平氏 東軍、徳川方

戸田氏(尼崎城築城した実績)徳川方

氏家氏が 土塁を高くし水堀を深くするなど改修伊藤祐盛が天守閣を築きました!関ヶ原で荒れた城を改築した松平。引き継いで城下町整備をした戸田氏鉄

天守閣は、空襲で消失しましたが、地元民の熱い応援で再建されました。

廃城令も耐え、空襲で燃えるまでは国宝であった大垣城。四層の天守閣は郡上八幡城の再建の参考にされていました。(たしかに似ていた)

※ 参考 郡上八幡城 ※

戦後の再建は、窓枠が観光仕様になっているなど本来の天守閣でないとの声があり、改築されて昔の外観になっています。


時代背景 父盛景から引き継いだ伊藤盛正の悲劇

1599 盛景死去、家督を継ぎ美濃大垣城城主に

石田三成と徳川家康の対立がふかまり、石田三成より美濃尾張の防衛線として大垣城を西軍へ明け渡すよう要請される。最初は断った盛正だが仕方なく受け入れて美濃今村城へ。

1600年 関ヶ原開戦。盛正は松尾山城に陣を置いたが、後から来た小早川秀秋に奪われた。結局負けた西軍に与していたため改易(お家取り潰し)される。

※西軍の負けを決定付けた裏切りの小早川秀秋に自陣を奪われた盛正、悲劇。

京都で浪人していた盛正は、徳川家康に見つかり殺されそうになったが、それを不憫に思った福島正則の懇願で命拾い。十五年間広島で過ごす。

1619年の台風で壊れた広島城を改修する問題により、恩人福島正則は信濃へ

1620年 頼る先に困った盛正は、信長生前時代、馬廻衆のなじみでご縁があった前田利常に士官することになる。

素晴らしい居城も陣も取られて一度浪人になり、殺される恐怖も味わった彼。運良く恩人が現れた盛正。

しかし、この悲しき盛正の人生については城内史料館で多くを語られていないため、「伊藤盛政」の不運のみ把握して後日調べたらこのような形で紹介されています。

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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