身近な仏教勢力は要注意!本願寺勢力と僧兵

仏教はとても漢字が多くて記憶するのも難しく、宗派の名前なども、自分の家以外はよくわからないなんてお悩みをよく聞きます。まずは宗派の整理から、仏教勢力の中でも「僧兵」を抱えた武闘派の方々を紹介します。

そもそも仏教って…

日本に仏教が伝わったのは飛鳥時代(公的な記録)ですが、渡来人によって早くに持ち込まれていたなんて説もあるくらいです。仏教勢力といえば武力をイメージに持たれる方も多いと思いますが、元を辿ると、写経などを通じて漢字を書けたり、土木などの大陸の知識を持った専門家集団であったとも言われています。

※元々お経の内容は、釈迦の生涯をかいたもの。写経などを通じて釈迦の考えを学んでいるわけです。

そんな寺社が、公権力と結びついて荘園などとよばれた土地を持ち、地元の方々を従えたのが仏教勢力です。

奈良から京都、難波宮や滋賀など、各地に宮が移されるたびに公権力から引き離されてしまう悩みのあった興福寺などの仏教勢力。お寺はそう簡単に移転ができないので、力が及ばない地域に都が移るたびに、策を練っていたそうです。平安時代に留学から帰ってきたエリートお坊さん最澄と空海による宗派、天台宗(比叡山延暦寺)、真言宗(高野山金剛峯寺)ができたときの対立構造を南都北嶺などと表していました。


宗派を見える化しました!(簡略版)

受験勉強をしている若者の受けが悪いのはこのわかりにくさ。今回もマインドマスターを使って整理してみました。

戦のマークの有るところは、後に僧兵勢力を抱えていく集団に発展します。

※ 一向宗という言葉は、浄土宗の一向が起こした宗派でもありますが、後に似た言葉「一向衆」とまとめられたり、同じスタイル踊り念仏を取り入れていたからという理由で「時宗」と一緒にされたりしています。

※ 一向宗=浄土真宗 とした日本の教育は、江戸時代にむりやりそう呼ばそうと仕組まれたもので、よく言われる本願寺勢力(浄土真宗本願寺)は自らを一向宗と呼ばなかったと言われています。

ここでのポイントは、

天台宗や真言宗が古くからの勢力であったが、民衆を広く集めることができたのは鎌倉仏教であることです。

南都六宗は、高校日本史でもマニアックとされていますので、無理して暗記しなくていいと思います。奈良時代の6宗派は、寺ごとに宗派が異なるといった分け方ではありませんでした。

道昭は架橋事業でも聞く名前です…国の公共事業に携わっていた側面もあるようです。

僧兵勢力としての仏教とは…

ここで出現しました。カオスな一向宗の文字。

厳密には、本願寺勢力と連動した形で全国に広がっていったその土地の支配者に対する対抗勢力のひとつです。

特に多いのが「加賀一向一揆」でも有名になっった北陸勢。

北陸は、「流刑の地」に設定されることがあり、浄土真宗を立ち上げた親鸞が北陸へ流されたことから、畿外にも勢力拡大の基礎を築き、時代が変わり1465年には浄土真宗の本願寺勢力蓮如が比叡山延暦寺の弾圧から、加賀国へ下向している際も「浄土真宗」に関しての布教をしている場所であることが言えます。

※もちろん、越前には曹洞宗の本山永平寺もあります。ですが、曹洞宗は禅宗という枠組みであること、修行の厳しさもあいまって、僧の結婚が許され規律が緩やかな「浄土真宗」が民衆には浸透しやすかったとも言えます。

そんな蓮如には、子が27人もいたと言われています。当時多くの宗派で僧は結婚を許されず、比叡山坂本には密かに「里」なるものがあり、私生児が多くいたとも言われていますが、宗派の規律がゆるい浄土真宗ならではの発展の形かもしれません。子を養子にだすなどして、勢力を拡大していきました。

その結果として、石山本願寺を寺内町としてより防備を固め、雑賀(和歌山)においては種子島(鉄砲伝来の地)から手に入れた一丁の火縄銃をきっかけに、「鉄砲衆」をも戦力とした本願寺勢力。

石山本願寺

勢力を誇っていた本願寺勢力には、織田信長、滝川一益、佐々成政なども手を焼いていたことがわかります。

有名どころですと

加賀一向一揆

長島一向一揆

石山合戦

(石山本願寺へは毛利ら信長に敵対する勢力の協力もありややこしかった)など。

個人的には、紀州を巡った信長~秀吉の紀州征伐に、多くの寺社勢力が関わっている点も気になっています。

紀州征伐においては、あの有名な高野山も!

現在は南海電車にケーブルカーといたれりつくせりの高野詣。当時はもちろんそんな便利なものはなく、急峻な坂道を延々と歩くのは修行以外の何物でもないと思いました。


高野山の麓 九度山

真田昌幸・信繁(書籍によっては幸村)親子が関ヶ原後にまず送られたのがこの高野山。高野山は女人禁制。妻子と共に過ごせる麓の九度山に降りたので、九度山な真田の聖地にもなっています。


根本中堂も、戦火で何度も燃えています。高野山は、比叡山延暦寺など他に比べると「焼き討ち」されていません。理由は「国家権力に従順」であったから。

江戸幕府のときには多くの大名らが奥の院へ続く参道に「墓地」を設置するということで、信仰をあつめていました。様々な看板が「江戸幕府」になってからの~藩表記となっていたのもそういった背景からなんでしょうね。

焼き討ちが比叡山延暦寺だけでなかったということも、こうして洗い出していくと見えてきます。抵抗したらこうなるといった見せしめになったのでしょうね…


今週末は、焼き討ちで有名なあの場所を探訪?!

高野山現地にはあまり戦に関わる資料が無く、比叡山はどんな風に紹介されているのか、気になります。

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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