明智光秀というと、1582年の本能寺の変にて主君織田信長への「裏切り」で歴史の学びの場では有名人。2020年大河ドラマで初めて主役として描かれて、天下泰平の折にやってくる麒麟を求めるという筋書きに、彼の印象が大きく変わったという方もいらっしゃると聞きます。
私個人としては司馬遼太郎の描く「敗者の美学」も好きなので、多面的に人物を捉えることを心がけています。
先日、近江坂本〜比叡山〜京都ルートを再訪した時、坂本の方々から明智愛を感じる素晴らしい体験をしましたので、明智光秀に関係する場所の紹介とともに記載したいと思います!
明智光秀の生涯
明智光秀の生涯と関連する場所など(簡略化して記載)
生まれは岐阜、明智城?と言われています。
明智家に関しても諸説あり、わからない点が多くあります。まずは斎藤道三に仕えた事が分かっています。
明智光秀に関しては、お家柄によるものより、彼個人のポテンシャルが高いため、浪人になった期間に新たな学びをして、さらにパワーアップして次の主君に仕えるタイプと見ました。
朝倉勢と近かった時期を経て、足利義昭に仕えます。
当時、足利義昭周りは騒然としており、義昭を京都へ戻れるようにした織田信長を恨む勢力がいました。明智光秀は義昭側として、三好三人衆から義昭を守る(本圀寺の変)ことでも功をあげました。
明智光秀 近江では?
明智光秀は、織田信長よりさまざまな指令を受けて戦に出かけていく事も多く、地域別に時系列に並べる事が困難です。近江の拠点がありつつ、丹波攻略、雑賀攻め、石山本願寺の戦、摂津の対荒木村重の戦にも。忙しい方と思います。
有名なのは、比叡山延暦寺の焼き討ちの際、織田側として活躍したり、各地でお寺を焼き討ちした話もあります。
(例:三田城にて荒木平太夫と戦をした際、兵糧攻めをしていたのですが、それを密かに助けていた松林寺を焼き討ちしたのが明智光秀です)
→ そんな明智光秀ですが、坂本の街を再建した事も起因するのか、地元にはファンの方がいらして、ゆかりの場所で解説ボランティアをされていました。
明智光秀が築城した坂本城について
- 記録的な渇水で琵琶湖の水位が下がった際に、坂本城の石垣と思われるものが見つかった。
- 坂本には穴太衆という石工集団がいて、石垣も高く積まれていたが、浅野長政が大津城へ移転する際に、石も運んでしまった。遺構、所在地も長く分からなかったので、幻の坂本城と呼ばれた由縁。
- 坂本城は、水上交通の要衝であり、米を運搬する(年貢米)際の港機能も持っている重要拠点であった
- 比叡山延暦寺との関わりは多く、「里の坊」として栄えたが、焼き討ちによって殆どが灰になった。
- 織田信長が信頼していた森長可の墓所があった聖衆来迎寺は、焼き討ちの対象とならず、「近江の正倉院」と呼ばれている。天台宗などに関わる多くの宝物が残されている。
- 明智光秀死後は、一旦再建されたが、秀吉の命により廃城され、京に近い大津へ移転するため、多くの資材を大津へ移転した。(浅野長政)
- 大津城の一部が彦根城に移されていることから、彦根城で坂本城の一部があったと期待されている。
- 坂本城の遺構を感じさせる場所は多くが私有地のため、そう簡単には見れません。
- 今の城跡公園(本丸は別の場所。キーエンスの敷地)、ボランティアの方が昔通っていた幼稚園があったそう。
明智光秀のお仕事に関連する城 ※諸説あり
オレンジ:丹後、ピンク:丹波、濃いグリーン:紀伊、緑:播磨・摂津、水色:明智の居城・築城
乞うご期待
西教寺と明智家(近江)
もともと聖徳太子ゆかりの寺院として古くからあった西教寺ですが、比叡山延暦寺の焼き討ちの際、一緒に焼失しています。明智光秀は、自ら燃やしてしまった西教寺そして坂本の町を再建していきます。
こちらには、明智一族の墓と、妻煕子の墓もあります。煕子は病で光秀よりも早くになくなりました。
当時の武家では、妻の葬式に夫が参列しないことが通例とされていたのですが、光秀は、忙しい遠征の合間を縫って参列した「愛妻家」としても有名です。
西教寺には「麒麟」をかたどったものがあるなど、明智ファンにも喜ばれるスポットです。ミニ明智資料館もあります。(大河ドラマは終わりましたが、展示は継続されています)
穴太衆が作庭されたといわれる枯山水も!
観光情報:比叡山坂本駅からは徒歩で2キロほど。少し距離があります。駐車場は無料。
穴太衆の石積みと、慈眼堂、滋賀院門跡(近江)
明智光秀=南光坊天海説はきいたことがありますか?実は明智光秀は生きていて、家康の保護のもと「天海」として活躍していた説です。そんな天海は、西教寺の至近にお堂を作っています。
こちらにも、地元の方がいらして、丁寧な解説をしてくださいました。
地元の方曰く、「坂本に来たらここに来ないと意味がない」そうです。駅からは距離がありますが、ぜひご覧頂きたいものがいくつか…
- 穴太積みの石垣
- 境界(比叡山延暦寺の神域)に並ぶ仏像、女人が探訪した碑。(和泉式部、紫式部)
穴太の地域では、採石が難しく、各地から集めてきて積んでいた(野面積み)と言われています。
比叡山延暦寺は平安京へ遷都した桓武天皇のおかげで「北東側」の鬼門として保護された経緯があるので、天台宗の名だたる高層隠棲の地とも言われる坂本でも、「桓武天皇」の碑が配置されていました。(ピンク色に変色する石は珍しいとのこと!)
観光情報:駅からは近くない。バスあり。車なら、無料の駐車場有り。夏場はとくに蚊が多いので対策要。