川中島の戦い、一次から五次まで解説!なぜ5回も戦った?!

越後の龍、甲斐の虎。日本の戦国史でも有名な「川中島の戦い」。戦には多くの兵力や兵糧などを消費するので、できることなら効率よく進めたいはず…それなのに、賢い武将両名が、1553年~1564年のこの短い期間に同じ地域で5回も戦をすることになりました。こだわる理由はどこにある?5回の戦の前後を分類し、まとめてみました!

そもそも論

戦をすることのメリットは?

  • 自分の領土を広げる(攻め、城を落とし、場合によっては自分の家臣を配置する)
  • 自分の味方を増やす(戦で降伏した武将を配下にする、もしくは調略などとも)
  • 敵に自分の力を見せつけてけん制する。(脅しとも…)
  • 大義名分をもとに、自分の立ち位置を主張する(今回だと「関東管領」「信濃国守護」)


ここからは、以下のマインドマップを用いて

「川中島」の戦のきっかけから結果まで、くわしく見ていこうと思います。

※ 以下図を触る(タップもしくはクリック)と、拡大してご覧いただけます。

※ 図をもっと拡大されたい方向け PDF もあります


1次川中島の戦い すべてのきっかけは、武田信玄の北信濃侵攻から

信濃国の中心地は「府中」今の川中島と呼ばれる地域でした。信濃国の北側にあたる場所です。

甲斐国(現在の山梨県)は、信濃国(長野県)の南側。

武田信玄は、南から国人領主たちを攻め、攻略して北上していきました。

その中で、北信濃にかかる地域でぶつかったのが小笠原氏村上氏でした。

武田に攻め込まれて困った信濃の国人衆は、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信(当時長尾。以後謙信と表記)へ助けを求めます。

上杉謙信としては、最初は乗り気でなかったものの、村上義清らの要請であることや、有力な彼らの土地がそのまま武田信玄に取られることのリスクを考えたのだと思います。

今回の当事者村上義清は、本拠としていた葛尾城の攻防、敗北、そして塩田城での再戦も、信玄によって落とされてしまいました。

そのため、村上義清は、関係が良好であった上杉の越後国へ逃げることになります。

1次川中島 結果引き分け

北信濃の有力者・村上義清が、武田信玄に敗北することによって、武田信玄は北信濃に拠点を置くことができました。

上杉謙信は、表でもわかる通り「局地戦」では負けていないので、北信濃の国人衆のすべてが武田に味方してしまう事態は防げそうだととらえていたようです。。


2次川中島の戦い 善光寺の2氏を利用した武田信玄。

川中島エリア(長野県長野市)には、有名なお寺、

善光寺があります。

善光寺の別当にあたる2氏、里栗田氏と山栗田氏を利用し、対立するように仕向けたのが信玄です。

その動きに対し、上杉謙信は、善光寺に近い場所へ葛山城を築城。

里栗田氏の支援をすることにして、長期滞在を考慮し着陣しますが、

なんと直接大きな戦になることがないまま、200日(約)も膠着状態に。

2次川中島 結果:引き分け

村上義清の処遇についてはあえて触れていません。

武田・上杉両郡、互いに長期戦を覚悟していたのですが、兵糧の消費なども考えると、これ以上睨み合い状態を続けるわけにもいきません。

今回は今川義元が仲裁に入り、戦は終了となりました。

武田信玄、武田方の旭山城を壊すことも約束。川中島に置いた武田勢力の帰国も約束します。


3次川中島の戦い 和睦の内容を無視する信玄に、謙信は怒り心頭!

なんと、今回は上杉家中にトラブル発生!

2回目の合戦の後、上杉家中で家臣同士の争いが起こり。謙信はその疲れのため行方不明になります。

そんな謙信を引っ張り出そうとしている?とも思われる信玄の行い…

  • 長野盆地も攻略し、真田幸隆に命じて、謙信の重要拠点・尼飾城(北信濃)も落とさせる。
  • 調略によって、箕冠城の城主を武田方にし、上杉側へ反乱を起こさせたところで、謙信が戻ってくる
  • また、同じ期間に武田信玄は重要な善光寺周辺地域も掌握

武田信玄の奇策は、「積雪で上杉軍が動けない時期」に実行するのがポイント。越後は積雪が多いため、どんなに強くても越後山脈を越える時期に限りがあります。

その結果、発生したのが3次川中島の戦いです。

この戦の特徴は、信玄と直接対決をしたくて追いかける謙信

直接対決をしたくないので転々としながら諸城を攻略していく信玄

謙信の猛追はすごかったのですが、信玄もそれをかわし続けるため、戦はなかなか終わりません。

そこで、時の将軍・足利義輝が書状を書き、戦を終わらせます。

結果:引き分け。信玄優勢?「信濃国守護」は武田信玄に!

一方で、上杉謙信は目立った成果なく帰国することに。

しかし、この戦の仲裁からも、足利義輝が上杉謙信をとても信頼していることがわかります。将軍に信頼されるということは、何か次に期待できることもあるかもしれません。


4次川中島の戦い あの有名な一騎打ち?!(実は史実かどうか怪しい)

前回の戦いのあと、名実ともに「信濃国守護」を手に入れた武田信玄。

上杉謙信としては、北条氏に国を追われた「元・関東管領」で親戚にあたる上杉憲政を引き継いで称号が欲しいところでした。

戦のあと、上杉謙信は京都へ。許しを得て、晴れて「関東管領」となります。

Q. なぜ「関東管領」にこだわるのか?

A. 役職なしに他氏を攻めると、個人の欲のために動いているととらえられてしまいがち。

 こうした役職になることで、関東地方を鎮めるための軍事的な行動であると主張でき、

 そうした権威があるだけで、戦をすることなく上杉へ味方してくれる国人領主もいるため。

関東管領となった上杉謙信は、まず関東の平和を脅かす北条氏(相模国)への戦をしかけます。

謙信が率いたのは10万の兵力、さすがの北条氏も困って、同盟関係にあった武田氏を頼ることに。

この当時は「甲相駿三国同盟」がありました。(ちなみに駿は駿府。武田・北条・今川の同盟です。)

越後の上杉と、相模の北条の戦場は主に上野国。(現在の群馬県)

ここで信玄の素早い動きで謙信を悩ませます。

  • 信玄は、北条氏へ味方し、小田原へ援軍を送る。
  • 信玄は、越中の神保氏と通じて戦を起こさせ、謙信を越後国に帰国させる。
  • 信玄、碓氷峠を越え上野国に入り、松井田へ侵入。放火などの攪乱攻撃。
  • 信玄、割ヶ岳城(北信濃)を落とし、越後国国境を動かす。
  • 信玄、川中島へ海津城を築城。(次の戦への備え?!)

さすがにここまで邪魔されると、北条氏討伐どころではなくなってしまった謙信。

やむなく帰国し、4次川中島の戦に発展。

この戦では、「啄木鳥(キツツキ)戦法」なるものがでてきます。

一般的にイメージされる「川中島の戦」はこれです。

古戦場が整備された公園になっているのはもこの4次のみ。

なぜそうなったかというと、他の1~3,5次が、「両軍のにらみ合い」で終わってしまったり、

信玄が直接対決を避けてあちこち転々としたからです。

ようやく戦らしい解説ができそうです。

キツツキ戦法とは?

鳥の名前をもじったもので、武田軍が考えた方法です。

① 軍を二手にわける。本隊はふもとの八幡原に陣を置く。

② 別動隊は敵の背後(妻女山)から奇襲をかける。

③ 敵軍が驚いてふもとへ飛び出したところを、本隊で迎え撃つ

この戦法のリスクは少なく、上杉軍を挟み撃ちにする利点もあります。慎重な信玄らしい戦い方ですねえ。

実際、謙信が陣取った場所が妻女山。信玄がいた本隊は八幡原ですから、この戦法通りですね。

しかし、この考えを上回っていたのが謙信。いつもより飯をたく煙の数が多いことから何かを予測したのか、

ひそかに妻女山を下り、八幡原へ移動しました。渡河地点には1000の兵を置いて、挟み撃ちにされるまでの時間を稼ぐことも対策済み。

霧が晴れて、奇襲する別動隊は驚いたでしょうね。奇襲しようとしたら妻女山は無人。

八幡原の信玄本隊に至っては、目の前に上杉軍。

謙信の軍はとても強かったとも。武田の軍へ深く攻め込めたので、信玄VS謙信の一騎打ちがあったともいわれていますが、これは信憑性がないお話のようです。

結果:引き分け。勝ったと主張する両者。信玄と謙信

妻女山へ奇襲をかけた12000の兵が八幡原へ到着するまでが謙信の勝負でした。

1000の兵で渡河地点を守り切れるはずはなく、謙信は挟み撃ち状態に。

謙信は兵を退きます。これが4次川中島の概要です。

武田軍の損害は大きく、名だたる家臣らが命を落とします。

一方で謙信は、甘粕という大事な戦力を失うことになりましたが、軍全体の死傷者でいうと武田軍よりは少ないともいわれています。(ただし、「甲陽軍鑑」などの参考文献でも統一見解は無く、誇張表現もあると思われるため、上記の表の数値はあくまでも推測です)


5次川中島の戦い 上野国・飛騨国の支配権をめぐる対立から!

両軍が直接対決した4次川中島の戦いでしたが、両軍が「勝った」と主張して終わっており、これ以上の戦はもうないと思われていました。

いつも先に手出しする側の信玄にとっては、信濃国は自分が守護にもなっているし、すでに武田の支配下となっているため

わざわざ川中島で戦をする必要性がないんですね。

しかし、謙信はどうでしょうか、関東管領として北条討伐をしていても、信玄に邪魔されてなかなか進まないし、何なら川中島で決着をつけておきたかった。

そんな中で起こったのが上野国、飛騨国、武蔵国で展開された攻防戦です。

例のごとく、信玄は北条氏と手を組んで、まずは該当地域の重要拠点を落とし越後から謙信をおびき寄せ、謙信が到着したら撤退。謙信が越後を留守にしているときに、北信濃などの謙信の拠点を脅かしにいく。

信玄の移動の速さは、まるで信玄に影武者でもいるのでないかと噂されたほど。

謙信にとっては、本当、厄介な敵です。

そのような動きがあったため、再度決着をつけたかった謙信でしたが、今回は信玄にとって直接対決をするメリットがなかったため徹底的に避けられることに。わずか2か月のにらみ合いで終了します。

5次の場合は、川中島の戦というよりも、その前後が重要なので、詳細は表でもご確認いただけたらと思います。

結果:川中島の戦は戦うことなく終了。引き分け。

この戦のあと、謙信、信玄は和睦の方向へすすみます。

越後国でかつ関東管領の上杉謙信は、ほかに抑えないといけない勢力もあり、

甲斐国でかつ信濃国守護の武田信玄は、対北条、徳川・織田との戦が控えていたりと、見るべき敵が多いのです。

甲相駿三国同盟」はどうなった?と思われた方へ…

この同盟関係は、1571年に今川と武田の交易が終了したことで終わりました。(塩止めと呼びます)

※今川義元は1560年に桶狭間の戦で敗れているため、息子の代ですね。

関係が複雑なので、以下関係図を作成してみました。


川中島の戦い(1~5次)後の関係図

武田信玄からみる4つのポイント

① 織田信長との同盟

⇒婚姻関係を結ぶことで、姻戚関係に。関係は良好だったとも

② 織田の力を借りて上杉謙信と和睦。信玄にとっては北方面の不安ごとがなくなる

⇒上杉謙信は直接決着をつけたいと、最後まで望んでいましたが(第5次のくだりを参考に)、武田信玄はそうでなかったといいうことですね…。

信長の力をかり、和睦となりました。

③ 比叡山焼き討ちをした織田信長に対し嫌悪感⇒もう織田に協力できない

⇒ 同盟当初、良好だった織田との関係でしたが、

その後、織田信長と対立してしまいます。

きっかけは、「比叡山延暦寺の焼き討ち」でした。

ちなみに、二つのお寺は全く別物。

比叡山延暦寺は、天台宗の総本山

石山本願寺は、浄土真宗、一向宗の本拠。

※ 補足説明 ※

比叡山延暦寺と石山本願寺の関係については不明な点が多いといわれています。1532年山科本願寺の戦いをきっかけに、元々対立していた比叡山と石山本願寺は和解し、その後の織田信長包囲網には共に協力したといわれています。

武田信玄の妻・三条の方は、本願寺顕如の妻・如春尼の姉。

信玄と本願寺についてはこうした婚姻関係もあり、織田信長の仏教勢力に対する高圧的なやり方には反対だったとも考えられますね。

他にも、織田信長との同盟関係を断った具体的な2つの理由があります!

  • 1571年の焼き討ちの際、比叡山延暦寺の天台宗座主が甲斐国に逃げてきて信玄に助けを求めていた
  • 信玄は、足利義昭から織田信長包囲網(第1次)に加わるよう頼まれていた。(ちなみに、石山本願寺も参加している)

④ 徳川とは対立関係を継続

⇒1572年 武田信玄は家臣の山県、秋山を三河侵攻へ向かわせています。三河には徳川家康が居ます。

 徳川と織田は同盟関係にあり、織田も援軍を派遣しますが、

 浅井朝倉との戦で手が離せず3000の援軍しか送れませんでした。

 武田方の軍勢は強く、短期間に多くの城が落とされてしまっています。

ここまで、織田と同盟→織田と対立⇒三河の徳川を攻撃した武田信玄でしたが、

野田城をめぐる攻防戦(金山などの鉱山資源枯渇に備えて)などをしている間に、病で喀血してしまいます。

1573年 三河にも近い、信州駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で亡くなったといわれています。

信玄が亡くなった場所は諸説あり。三河街道沿いのこの場所、拙者も近くを通りました。自然豊かでとても山深い場所です。

なんとなくきれいな形の山で、城に向いているな、と思った山が「駒場城」で、調べてみたところそのようなゆかりのある場所でした。

「儂の面前、黙って通過すな!」なんて、信玄が呼んでくれたのでしょうかね~。

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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