名門・細川家を鎌倉〜戦国までまるっと解説

細川護熙元首相でも有名な、名門細川家。細川の地元は熊本…?なんて思っている方もいるかもしれませんね。

実は、足利本家から分家したため、スタート地点は三河なのです。出世のなかで増えた所領はいくつもありますが、主な地域は四国だった?!今回は、そんな細川家を鎌倉・室町時代から、整理整頓してみようと思います。

いつものように、マインドマップで落とし込みました。そうしたら以下のようになりました。携帯でご覧になる方にも厳しいくらい、文字が多くなりました。そうなのです、「分家」多し。

※見にくいと感じた方⇒ PDF 細川氏家系図 でご覧ください。

ポイント

養子で家を続かせているケースが多く、点線囲みが「養子」です

遠州家は、省略し、当主のみ載せています

情報量が多く、「どうしても載せられなかった方」もいます。ご了承ください。

諸説あり。不明な点あり。大多数の意見を取り入れています。

そういった点を踏まえ、以下のようにまとめております。

細川家の発祥~細川藤孝まで


① 発祥

鎌倉時代は足利本家より分かれて派生した矢田氏。矢田義清から始まり、矢田義季が細川次郎と名乗ったところから、「細川氏」が始まりました。

かけ出しの細川氏は、有力な後ろ盾がなくて、知行地(支配できる土地)も少なかったそう。

場所:三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)


② 細川宗家4代・5代に活躍!(6代は…汗)

4代目当主和氏の時は、鎌倉幕府を倒すべく立ち上がった足利尊氏らとともに、六波羅探題攻めなどの戦に関わりました。京都には、鎌倉幕府時代に置かれた、六波羅探題があります。

※六波羅探題の機能…

御家人処罰の権限と裁判制度がありました。朝廷からは、六波羅探題に対して、京都周辺の治安維持に加えて、寺社間の紛争解決、悪党鎮圧や所領訴訟に関する判決執行のための検断権行使も期待されていました。

足利尊氏の子、千寿王を守り、補佐をするなど、尊氏から信頼されていたようです。

鎌倉幕府を倒し、新しく後醍醐天皇とともに建武の新政を始めた足利尊氏でしたが、不和から対立関係に。

1338年には、足利尊氏が室町幕府を開きます。

後醍醐天皇(南朝)と足利尊氏(北朝)の対立のさなか、細川和氏は尊氏の側で南朝方の新田義貞に対抗。

一時期は南朝が優勢で九州においやられた尊氏の命令で、細川和氏は四国へ。阿波、讃岐中心に南朝方を倒しました。この活躍は、和氏ら兄弟によるもので、細川家が四国に勢力を持っていたのはこの頃からのようです。

5代目当主清氏に代替わり。足利家は、幕府成立後も、尊氏の弟・足利直義による謀反と、南朝との争いがありました。

その中で、清氏は、四條畷の戦いなどで活躍。伊勢、伊賀、若狭の守護、相模守に任じられました。尊氏死後も、二代将軍義詮の執事として北朝に貢献しました。

しかし、清氏は寺社や公家に対し、半済(はんぜい)を行ったことで彼らから反感を買いました。

半済とは、荘園・公領の年貢の半分も守護に取られてしまう制度なので、これはもめますね~。

また、同じ幕府内、細川の親戚内でも敵がいたそう。

戦では活躍できて、能力値の高そうな清氏。史料が少なく、清氏個人の印象操作とも言われています。

二代将軍足利義詮とも意見が合わなくなって、ついに、足利義詮は、清氏を倒すよう命令をしました。清氏は仕方なく、南朝方にて戦いますが、正氏を残して討死します。

をおいつめたのは、同じ細川家で親戚の頼之でした。

小豆島の佐々木信胤塩飽水軍を味方につけて海上封鎖までした清氏でしたが、頼之の作戦に負けてしまいました。

正氏は、細川宗家6代目にあたりますが、父と同じく南朝方でいたために、細川の1番の座を取られる事になります。

★ 細川宗家 → 京兆家に! ★

清氏、正氏から細川家トップを奪ったのが、細川頼之です。

頼之は、父である頼春から数えて二代目。

阿波、伊予に加えて讃岐・土佐国の守護に!四国管領と呼ばれます。


③ 京兆家の活躍 京兆家2代目細川頼之

四国管領と呼ばれた頼之、幕府内でも長期政権に。しかし、周囲の大名の反発があり、弟頼元に家督を譲ります。

しかし、3代将軍足利義満の厳島詣をきっかけに浮上。

1390年 山名氏のアトツギ争いに関与。足利義満側の立ち位置で、山名時煕をおろします。

 ※ 山名氏の争いについては別記事に詳細を記載しています。

1390年 その後、足利義満の心変わりで時煕は復帰。それをよく思わない山名氏一派が、幕府に対し兵を出しました。それが、明徳の乱です。

その時も、頼之は参戦し、活躍。頼之は幕政に復帰します。

男子の居なかった頼之

細川家の宗家を引き継いだ形となった「京兆家」(けいちょうけ)ですが、

厳密には、「右京大夫」という名の唐名から「京兆」と名乗ったのは3代の頼元からのようです。


④ 数々の戦に巻き込まれた!京兆家10代目細川持之

6代将軍足利義教の時代、細川家は管領として君臨していました。

足利義教は、くじ引き将軍とも呼ばれていて、僧から還俗して将軍になりました。

義教は各氏のアトツギに関して口出しするなど、非常に危ない動きをしていました。

ことの発端は、鎌倉府の足利持氏と、6代将軍足利義教の対立。

① 関東管領・上杉憲実(上野国)が、持氏をなだめようと動く

② 上杉憲実のことを義教側とみた持氏。上杉に対する戦を起こします。(永享の乱)

③ 細川持之、上杉憲基へ援軍を出します。(永享の乱)

④ 足利持氏の負け。持氏、足利持氏、自害。⇒ 鎌倉府滅亡 (永享の乱)

⑤ 空白になった鎌倉府。足利義教は息子を送り込もうとする。

⑥ 結城親子、足利持氏の遺児を盛り立てて鎌倉府再興を画策。

⑦ 結城親子と、足利義教で戦になる。(結城合戦)

⑧ 赤松満祐による、足利義教殺害。

⑨ 細川持之は、足利義教の嫡男義勝をたてて、赤松満祐を倒しに…(嘉吉の乱)


⑤ 気になる細川藤孝は一体?!

細川家の枝分かれについては、上記図の通り。

結果として断絶してしまった家もありますが、奥州家のように、熊本藩主家と統合した家も。

男子がなく、養子をもらって家を続けていったことも、見えてきます。(詳細は家系図参照)

戦国時代、織田信長の配下として、そして明智光秀とのつながりでも有名となった細川藤孝は、

細川家のどの家か、みていきます。

細川藤孝は、和泉上守護家から。実は将軍の子?!

和泉上守護家細川元常と、京兆家の澄元・晴元・高国の対立に関して

藤孝の伯父、細川元常の代に、和泉上守護家は危機を迎えます。同じ細川家・京兆家との対立が原因です。

上記の図でも記載した通り、細川政元は男子がなく、3人の養子をとっていました。

澄之は早い段階で討たれ、澄元、高国が対立していたところから始まります。

そこへ、三好元長・三好長慶が関わるため、この対立についてはこのように整理されました。

藤孝の伯父・元常は、この対立がもとで、足利義晴と共に京を離れることになります。

藤孝の出自は、元常の弟・三淵晴員の子とされていますが、実は足利義晴の子とも言われています。

理由・補足

※ 藤孝の父・三淵晴員は、12代将軍足利義晴の側近晴恒の養子になっていました。

※ 藤孝の母は、清原宣賢の娘で、もとは、足利義晴に仕え寵愛を受けて身籠っていた女性でした。足利義晴が、後奈良天皇に言われて近衛の姫を妻にしてしまったために、 清原宣賢の娘 は身ごもった状態で三淵晴員へ嫁に来ました。

とはいえ、三好長慶死後、三好三人衆・松永久秀の台頭があって、足利将軍家は危機を迎えています。足利義晴には、(のちの)義輝、義昭という子がいます。

藤孝は、足利将軍家寄りの立ち位置でしたが、織田信長義昭を奉じて京都へ上がってきた際も織田に協力します。

織田信長と足利義昭が対立すると、細川藤孝は、織田方へ入ることとし、「長岡」姓を名乗ります。

そして、勝竜寺城を拠点として西岡地域にて地元勢力を抑えることから始めます。

その後、織田信長の命で、「丹後攻め」が始まります。


細川氏 関連のお城はこれだ!

細川氏の家系図はこちら⇒ PDF 細川氏家系図 

勝竜寺城(長岡市)

細川の九曜紋と、明智の桔梗紋の旗が!

アクセス

公共交通: JR京都線 長岡京駅 から徒歩10分

駐車場 : ◎

おすすめポイント

細川藤孝・忠興・ガラシャに関する展示も無料!

わかりやすい展示なので、再建された本丸内の建物に!

次回予告:丹後攻め関連城については別記事で…

更新したらこちらへリンクを貼ります~!

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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