南北朝時代って何?に答える~楠木正成寄りの解説~

楠木正成 千早城

南北朝時代とは?一言で答えられない人も多いこの問い。今回は、2022年から連載の今村翔吾先生の「人よ、花よ、」をきっかけに南北朝時代と楠木氏をあらためて調べてみた。

楠木氏はルーツが不明。楠木氏や南北朝時代の武士の関係性を説明するのには鎌倉から抑えていくとスムーズ。「1192つくろう鎌倉幕府」(今は1185年説など、年号に諸説あるらしい)で始まる武士による政権だが、鎌倉幕府終末期以降がややこしく感じてしまう。鎌倉時代に迎えた大きなピンチ3つが倒幕~南北朝への動きにつながっている。

鎌倉時代に迎えたピンチ3つ

もともと耕作者であったことの多い武士は、天皇家、貴族のような「官位」を持つものばかりではない。そのため、自分のルーツを主張する際になにかしらの「箔」が必要なのだ。それが、「源平藤橘」とよばれる4つの名門家「源氏」「平家」「藤原家」「橘家」に執着している部分も少なくない。

せっかく、天皇家、院政に勝ち、幕府を立てることに成功し「征夷大将軍」の地位が高まった鎌倉幕府。不運は重なっていく。源氏は3代で途絶える。

第一のピンチは源氏が途絶えた時期。隙を伺う天皇側にとっては好機。後鳥羽上皇による「承久の乱」が1221年に起こってしまう。このときに「吾妻鏡」のみの記載だが、源頼朝の嫁北条政子の演説で、権威ある天皇側につこうとする御家人(武士)たちは改心し幕府側につく。

結果、後鳥羽上皇は負けてしまうが、この時には少しずつ、先祖代々伝わってきた土地が相続していくうちに一人当たり小さくなっていく問題もおこりつつあった。はっきりとした経済問題ではないが、じわじわ削られていく感じ… 同時期、御家人は北条家に対し違和感を覚えたものは戦をおこしては倒されていく。

第二のピンチは、モンゴルで騎馬隊を編成し、てつはう(火薬)武器を駆使し中国を制圧した「元」の侵攻。当時の皇帝フビライは、当時人気の冒険家マルコポーロの「東方見聞録」を読み、日本(ジパング)には黄金が…といった夢のような国家をイメージして攻めてくる。歴史の教科書では「元寇」と習う。漢字が難しくひっかかった経験のある方も多いだろう。

強かった元の軍勢も、時期が良かったのか九州で暴風雨のお陰で退散していく。でも、こんな負け方はフビライも納得するわけがなく、幕府も恩賞として配れるものがない。そんな状況で、九州まで遠征した御家人はまた貧乏になっていく。

第三のピンチでトドメを刺される。ついに天皇側が立ち上がる。武闘派・後醍醐天皇である。当時の天皇家は大覚寺統と持明院統の2つに分裂し対立していた。後醍醐天皇は大覚寺統正中の変、倒幕疑いもかけられて、はるかに京都から離れている隠岐から脱出して再度攻め込んでいる。(隠岐:島根県)幕府の忠実なしもべであったはずの御家人も、このときは「経済的に困っている」「戦がないと再起は難しい」など理由は様々、天皇に味方する人が現れていく。それが、新田義貞、足利尊氏、楠木正成ら。以下相関図をつくってみた。

後醍醐天皇の新政、楠木正成の活躍

ここで後醍醐天皇を支えていくのが「楠木正成」ら。

生誕地と思しき場所には碑も。

楠木氏も不明な点は多く、ざっと見ただけでもルーツはこんなにある。「橘氏」関係?説は有力だが、史料は少なくよくわからない。

この内容については後ほどYouTubeで解説をしようと思う。関連史跡等を写真で乗せていこうと思う。楠木氏関連を追っていくと、もともと居館のあった千早地域(南河内)だけでなく、戦で湊川へ移動していく間のスポットなど多くある。探訪したい方のためにグーグルのリンクを掲載しておく。(リンクの文字)

関連史跡紹介

誉田林古戦場:大阪府羽曳野市

こちらは、様々な戦に巻き込まれた場所。南北朝だけでなく多くの戦に関わる。

葛井寺:大阪府藤井寺市

後醍醐天皇も帰依したお寺。多くの戦に巻き込まれて度々焼失している。地名に関わる、古いお寺。近鉄藤井寺駅からも近く、昔からの商店街は新しいお店も増え楽しい場所でもある。古墳も多い地域ではあるがよく探すと楠木正成公の痕跡も…!

千早城:大阪府河内長野市

初期の戦で、少数の兵で多勢の幕府方を翻弄した城。初見では車でなかなかの坂を登り、駐車場からは特に驚くほどの急斜面。斜面を登る際にところどころ削平地がある。守りにも適したすごい城と想像する。神社の社殿奥が禁足地になっているがこの奥がおそらく本丸。神様の怒りを買いたくないのでこの辺の写真にしておく。

吉野まであと少しの立地、河内長野。

ここに紹介できたのはほんの一部。アクセスはJR天王寺とも近い近鉄あべの橋から近鉄で30分ほど(羽曳野の場合)で行ける。インバウンドは少ない。阿倍野橋駅では、本数は限られるが吉野行きのさくらライナーもたまにいる。南朝、後醍醐天皇が本拠としておいた吉野を思わせてくれる。

楠木正成関連、楠木7城

後醍醐天皇の呼び掛けに応じた楠木正成公が、鎌倉幕府への抵抗の拠点とするために築城。

千早城           河内長野市(前述)
下赤坂城          河内長野市
小根田城(上赤坂城の一部) 河内長野市
桐山城(上赤坂城の一部)  河内長野市
烏帽子形城         河内長野市
龍泉寺城(嶽山城)     富田林市
金胎寺城
          富田林市

この中で比較的駅チカで公共交通でも不可能でないのが烏帽子形城

近鉄河内長野駅から高野街道を歩き、天野酒造さんも寄り道しながら景色の素晴らしい道をゆく。烏帽子形城は土の城。堀の形状も素晴らしいのでぜひ行ってほしい!

天野酒造さんは、太閤秀吉にも関係する歴史ある酒造会社さんです!城攻めの後に寄り道をおすすめします。

kanikama

中学生のころからハマった歴史。特に当時いちばん近くにあったのが「広島城」。原子爆弾の凄まじい爆風を耐え抜いた石垣に惚れ込み、「最強の野面積み」を眺めることから城へ興味を抱くきっかけとなり、大学でも歴史を専攻。文書から見える歴史だけでなく、フィールドワークで得た体感を大事にしながら「よりリアルで背景とリンクした考察」めざして今にいたる。

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